フィンセント・ファン・ゴッホ
概要
27歳で絵を始め、10年で2000点を描き、生前に売れたのは数点だった。弟テオへの手紙が、その10年を日記のように残している。
関わったできごと(1)
『星月夜』AD1889年6月 · 制作本文
フィンセント・ファン・ゴッホは1853年3月30日、オランダ南部の、ベルギーとの国境に近い村ズンデルトで、プロテスタントの牧師の長男として生まれた。ちょうど1年前の同じ日、母は男の子を死産しており、その兄と同じフィンセントという名が付けられた。4年後には弟のテオが生まれる。この弟が、のちに兄の生涯を支えることになる。

16歳のとき、伯父の縁で、パリに本店を持つ大きな画商のハーグの店に勤めた。真面目な働きぶりで、ロンドンやパリの店にも移ったが、やがて商売としての絵の売り買いに嫌気がさし、客と言い争うようになって、1876年に解雇された。その後、イギリスの寄宿学校の助手、オランダの書店の店員と職を変え、牧師を目指してアムステルダムで大学の受験勉強をしたが、ラテン語とギリシア語でつまずいて諦めた。1879年、ベルギー南部の炭鉱地帯ボリナージュで伝道師となり、貧しい坑夫たちと同じ暮らしをしようと、自分の服や寝床まで人に与えた。教会はその行き過ぎた献身を伝道師にふさわしくないとして、職を解いた。
どれも続かなかった。だが、炭鉱の村で坑夫や織工の姿を描くうちに、彼は自分の道を見つける。1880年、27歳で、画家になると決めた。画商として成功していた弟のテオが、毎月の生活費を送り始め、それは兄が死ぬまで10年間続いた。

フィンセントはほとんど独学で描いた。素描を何百枚も繰り返し、農民と労働者を描くことを自分の主題に定めた。手本にしたのは、畑で働く農民を描いたフランスの画家ミレーである。1885年、両親の住むオランダの村ニューネンで、薄暗いランプの下でじゃがいもを食べる農民の一家を描いた。土の色をした暗い絵だった。
1886年、パリに出てテオのアパートに転がり込むと、その絵は一変した。パリで彼は、第一回印象派展以来の印象派の明るい色と、点で色を並べる新しい画家たちの手法を知った。そしてもう一つ、日本の浮世絵に夢中になった。数百枚の版画を集め、歌川広重の作品を油絵で写し、平らな色面と大胆な構図を自分の絵に取り込んだ。葛飾北斎や広重の版画の中に、彼は理想の光あふれる国を見た。

1888年2月、パリの暮らしに疲れた彼は、南フランスのアルルへ移った。彼にとって、強い日差しの南仏は、思い描いた日本の代わりだった。黄色く塗った家を借り、花咲く果樹園、夜のカフェ、星空、そして『ひまわり』を、驚くべき速さで次々に描いた。そこに画家たちが共に暮らし描く共同体を作ることを夢見て、パリで知り合ったゴーギャンを招いた。10月、テオが費用を出してゴーギャンがやってきた。だが、気性も絵の考え方も違う二人は、狭い家で衝突を繰り返した。
12月23日の夜、激しい言い争いのあと、フィンセントは剃刀で自分の左の耳を切り落とし、それを紙に包んで、町の娼館の女性に届けた。耳の全部だったのか一部だったのかは、長く議論されてきた。ゴーギャンはすぐにパリへ去り、二人の共同生活は2か月で終わった。

その後も発作を繰り返した彼は、1889年5月、自ら望んで近くの町サン=レミの療養院に入った。病の正体は分かっていない。てんかん、躁うつ病、酒の害など、さまざまな説がある。発作のない時期には、療養院の窓から見える麦畑や、庭の糸杉やオリーブを描き続けた。渦を巻く夜空の下に村が眠る『星月夜』も、この療養院で描かれた。
1890年5月、彼はパリの北のオーヴェル=シュル=オワーズに移り、絵の好きな医師ガシェの世話を受けた。この村での70日ほどの間に、70点を超える絵を描いている。7月27日、彼は胸に銃弾を受けて宿に戻り、2日後、駆けつけたテオに看取られて死んだ。37歳だった。麦畑で自分を撃ったとされているが、銃は見つからず、村の少年に誤って撃たれたのではないかとする説も近年出されている。テオも心身を病み、兄の死から半年後に亡くなった。
画家として過ごした10年ほどの間に、彼は油彩画を約860点、素描を1000点以上残した。生前に売れた絵は、ごくわずかだった。ただ、晩年には少しずつ評価が出始めており、死の年の初めには、ブリュッセルの展覧会で一点の絵が買われ、パリの雑誌に彼を論じる評論も載っている。
残されたのは、絵と、弟との間で交わされた何百通もの手紙だった。フィンセントの手紙は、いまの絵で何をしようとしているか、どんな色をどう置くか、何を読み何を感じたかを、詳しく語っている。描いた本人の言葉で、一枚一枚の絵の背景がこれほど分かる画家は珍しい。

兄弟の死後、絵と手紙を引き継いだのは、テオの妻ヨーだった。彼女は幼い息子を育てながら、展覧会を開いて絵を世に出し、手紙を整理して出版した。20世紀に入ると評価は急速に高まり、彼の絵は世界で最も高い値の付く絵の一つになった。1987年には、日本の保険会社がロンドンの競売で『ひまわり』を、当時の絵画の最高額で買い取って話題になった。ヨーの息子が受け継いだ作品をもとに、1973年、アムステルダムにファン・ゴッホ美術館が開かれた。レンブラント・ファン・レインと並んで、オランダが世界に誇る画家となったのである。