人物

オーラフ・トリグヴァソン

Olaf Tryggvason
AD960年代 – AD1000年(享年40・推定)
ノルウェー重要度 3

概要

幼いとき奴隷として売られ、ルーシで育ち、ヴァイキングとしてイングランドを荒らし、洗礼を受けて帰り、5年ノルウェーを剣で改宗させた。拒む者は拷問した。スヴォルドで海に消えた。トロンハイムを建てた。

関わったできごと(1)

スヴォルドの海戦AD1000年 · 消えた王

本文

オーラフ・トリグヴァソンの生涯は、ほとんどが200年ほど後に書かれたアイスランドのサガによって伝えられている。修道士オッド・スノッラソンが1190年ごろラテン語で書いた伝記(原本は失われ、古ノルド語の訳が残る)や、スノッリのスノッリ『ヘイムスクリングラ』である。同時代の記録は、イングランドの年代記などにわずかに残るだけだ。以下の多くは、サガがそう語る、という話として読む必要がある。

スノッリ『ヘイムスクリングラ』に関わる図版:Lbs fragm 82, 0001r - 0
スノッリ『ヘイムスクリングラ』Wikimedia Commons National and University Library of Iceland · Public domain

サガによれば、父トリグヴィはノルウェー南東部ヴィーケンの小王で、ハーラル美髪王の孫だった。トリグヴィはハーラルの子孫どうしの争いの中で、グンヒルドの息子たちに殺された。身ごもっていた母アストリッドは逃げ、960年代に湖の小島でオーラフを産んだという。母子はやがて、兄がルーシの宮廷に仕えていたことを頼って東へ向かったが、途中でエストニアの海賊に捕まった。3歳のオーラフは奴隷として売られ、山羊一頭と、のちには上等な外套一枚と引き換えに人手を渡った。6年後、エストニアに来ていた母方の叔父が市場で少年を見つけ、買い戻してノヴゴロドへ連れて行った。9歳のオーラフは、ノヴゴロドの市場でかつて自分の養父を殺した男を見つけ、斧で打ち殺したと語られている。

少年は、のちにキエフの大公となるウラジーミル1世の宮廷で育てられ、成人すると兵を率いた。だが宮廷での人望を妬まれて東を去り、バルト海の南岸に住むヴェンド人の国で王の娘ゲイラと結婚した。ゲイラが数年で死ぬと、オーラフはヴァイキングとして西の海に乗り出した。

ここから先は、同時代のイングランドの記録と重なってくる。991年、エセックスに上陸したヴァイキングがエセックスの太守ビュルフトノスを討ち取ったマルドンの戦いで、その一団を率いていたのはオーラフだったとする見方が有力である。994年には、デンマーク王スヴェン1世(双叉髭王)とともにロンドンを攻めた。攻略はできなかったが、イングランド王エゼルレッドは1万6000ポンドを払って引き揚げてもらった。このときオーラフは、エゼルレッドを後見人としてアンドーヴァーで堅信の礼を受け、二度とイングランドを襲わないと誓った。年代記は、彼がその約束を守ったと書いている。サガでは、これより前にシリー諸島の隠者から洗礼を受けたことになっている。

マルドンの戦いに関わる図版:Alfred Pearseː Battle of Maldon in 991 (Hutchinson's Story of the British Nation, 1922)
マルドンの戦いWikimedia Commons Alfred Pearse · Public domain

995年、オーラフはイングランドで得た銀と兵を持ってノルウェーに戻った。当時の国はラーデのハーコン伯が治めていたが、その強引な支配に農民が背いていた。ハーコンは豚小屋に隠れ、一緒にいた自分の奴隷に首を斬られたとサガは語る。オーラフは王として迎えられた。

王になったオーラフは、ノルウェーをキリスト教に変えようとした。その手段は剣だった。豪族たちには洗礼か死かを迫り、拒む者は殺したと伝えられる。サガには、異教の神官ラウドの口に蛇を押し込んで殺した話や、エイヴィンドという男の腹に炭火の鉢を載せた話がある。どこまで本当かは分からないが、改宗が力ずくで進められたことは、サガを書いたキリスト教徒の著者たちも隠していない。彼の働きかけは海の向こうにも及び、アイスランドには宣教の使いを送ってアイスランドのキリスト教受容を後押しした。サガは、グリーンランドに住むレイフ・エリクソンに布教を命じたのもオーラフだと語る。997年ごろには、トロンハイム・フィヨルドの奥に町ニダロスを開いた。いまのトロンハイムである。

アイスランドのキリスト教受容に関わる図版:1630 IJsland Blaeu HR'
アイスランドのキリスト教受容Wikimedia Commons Willem Blaeu · Public domain

オーラフの支配は5年で終わる。1000年9月、バルト海から帰る途中のオーラフの船団を、デンマークのスヴェン、スウェーデン王オーロフ、そしてハーコン伯の息子エイリークの連合艦隊が待ち伏せた。スヴォルドの海戦である。オーラフは、34の漕ぎ座を持つという巨船「長い蛇」で最後まで戦ったが、味方の船が次々に奪われると、鎧を着たまま海に飛び込み、姿を消した。戦いの場所がバルト海南部の島の近くだったのか、デンマークとスウェーデンの間の海峡だったのかは、いまも議論がある。

遺体が見つからなかったため、王は生きているという噂が長く続いた。泳いで逃れ、ローマへ巡礼して修道士になった、聖地で暮らしている、といった話がサガに記されている。サガは彼を背が高く力が強く、誰より速く走り、漕いでいる船の櫂の上を渡り歩き、両手で同時に槍を投げたと描く。剣でノルウェーを改宗させた暴君と、北の国にキリスト教を運んだ英雄。サガはその両方を一人の人物に書き込んだ。

オーラフ・トリグヴァソンの硬貨
オーラフ・トリグヴァソンの硬貨Wikimedia Commons Ole Andreas Øverland (1855-1911) · Public domain

オーラフの事業を引き継いだのは、15年ほど後に王となったもう一人のオーラフ、オーラフ2世(聖オーラフ)である。彼も力ずくの改宗を進めて国を追われ、スティクレスタッドの戦いで戦死したが、その死後に聖人とされた。海に消えたオーラフと、聖人になったオーラフ。この二人の王の時代に、ノルウェーはヴァイキングの国からキリスト教の王国へと移っていった。

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