マルドンの戦い

概要
ヴァイキングが潮の引いた堤道を渡らせてくれと頼み、エセックスの太守が「公平に」と許して、負けて死んだ。古英語の詩に残る。「心は強く、勇気は大きく」。イングランドは初めて銀を払って帰らせた。デーンゲルド。
場所
51.73°N 0.68°E · イングランド・エセックス
本文
793年のリンディスファーンの修道院への襲撃(ヴァイキングの襲来)から始まったヴァイキングの攻勢は、9世紀にはイングランドの大半を揺るがし、ウェセックスの王アルフレッドの抵抗(アルフレッド大王のウェセックス)を経て、10世紀にはイングランドの王たちがデーン人の住む土地まで取り戻した。半世紀ほど、大きな襲撃のない時代が続いた。だが980年代、王エゼルレッドの治世に入ると、北の海から再び船団がやって来るようになる。
991年の夏、93隻の船団がイングランドの南東の海岸を襲い、フォークストン、サンドウィッチ、イプスウィッチを荒らした。『アングロ・サクソン年代記』の一部の写本は、その率い手をノルウェーのオーラフ、のちのノルウェー王オーラフ・トリグヴァソンとしている。8月、船団はエセックスのブラックウォーター川の河口に入り、マルドンの町の近くの小島に陣を構えた。島と岸の間は、潮が引いたときだけ現れる細い土の道でつながっている。いまのノージー島と考えられている。

迎え撃ったのは、エセックスの太守ビュルフトノースである。王に次ぐ地位の大貴族で、修道院を手厚く保護した信心深い人として知られ、このときすでに60歳を過ぎていたとみられる。彼は自分の家臣団と、地元の民兵を集めて岸に陣を敷いた。
この戦いの様子は、古英語で書かれた「マルドンの戦い」という詩に伝えられている。詩によれば、ヴァイキングの使者は川の向こうから、銀を払えば引き揚げてやると呼びかけた。ビュルフトノースは盾を掲げ、我々が払うのは槍と古い剣だ、と答えた。潮が引いて道が現れると、ヴァイキングは渡ろうとしたが、細い道はウルフスタンら3人の勇士に守られ、一人も渡れなかった。そこでヴァイキングは、道を渡らせて広い場所で戦わせてほしい、と頼む。ビュルフトノースはそれを許し、両軍は岸で向かい合った。詩はこの決断を、彼の「度を越した気概」のためだったと書く。この言葉が、過ぎた誇りを責めているのか、勇気をたたえているのかは、いまも読み方が分かれている。

戦いは激しかった。ビュルフトノースは槍で傷を負い、なおも戦ったが、腕を斬られ、倒れて殺された。詩では、彼は最後に神に魂を委ねて死ぬ。そのとき、イングランドの側からゴドリックという者が、主君の馬に乗って逃げ出した。それを見た兵たちは、太守が逃げたと思い込み、多くが戦場を離れた。残った家臣たちは、主君の亡骸を守って一人また一人と斬り込み、死んでいった。
詩の終わり近くで、年老いた家臣ビュルフトウォルドは、仲間にこう呼びかける。我らの力が衰えるほどに、心はより固く、胸はより勇み、気はより大きくあれ。主君を失っても退かない忠誠を歌ったこの数行は、古英語の詩の中でもとくに名高い。ただし、詩がどこまで実際の戦いを写しているかは分からない。誰がどう戦ったかの細部は、詩人の創作を含むと考えられている。

詩は325行ほどが伝わり、始めと終わりは失われている。写本はロンドンの蒐集家コットンの文庫に収められていたが、1731年の火事で焼けた。同じ火事では『ベーオウルフ』の写本も傷ついている(『ベーオウルフ』の写本)。幸い、焼ける前に作られていた写しが残っていたため、詩はいまに伝わった。ビュルフトノースの遺体は、彼が保護したイーリーの修道院に葬られた。のちの修道院の記録は、首はヴァイキングに持ち去られ、代わりに蝋の球が添えられたと伝えている。
マルドンの敗北のあと、王エゼルレッドは、カンタベリー大司教シゲリクらの勧めで、銀1万ポンドを払ってヴァイキングを引き揚げさせた。このような支払いは、のちに「デーン人の金」と呼ばれる。払えば引き揚げるが、また来る。994年には1万6000ポンド、1002年には2万4000ポンド、1007年には3万6000ポンドと、額は膨らみ続けた。王はその銀を国中から税として集め、1002年にはイングランドに住むデーン人の殺害を命じて、かえって報復を招いた。エゼルレッドは後世「無策王」と呼ばれる。古英語の「助言の無い」という言葉を、彼の名の「よい助言」にかけたあだ名である。
1013年、デンマーク王スヴェンが大軍で攻め込み、エゼルレッドはノルマンディーに逃れた(スヴェンのイングランド征服)。スヴェンはまもなく死んだが、その息子クヌートが1016年にイングランドの王になる。スウェーデンやデンマークからは、この時代のイングランドの銀貨が大量に見つかっている。銀を払って時を稼ぐやり方は、結局、王国そのものを渡すことで終わった。