できごと

マルドンの戦い

Battle of Maldon
AD991年8月10日
重要度 3
マルドンの戦いに関わる図版:Alfred Pearseː Battle of Maldon in 991 (Hutchinson's Story of the British Nation, 1922)
Alfred Pearseː Battle of Maldon in 991 (Hutchinson's Story of the British Nation, 1922) Wikimedia Commons Alfred Pearse · Public domain

概要

ヴァイキングが潮の引いた堤道を渡らせてくれと頼み、エセックスの太守が「公平に」と許して、負けて死んだ。古英語の詩に残る。「心は強く、勇気は大きく」。イングランドは初めて銀を払って帰らせた。デーンゲルド。

場所

マルドン
51.73°N 0.68°E · イングランド・エセックス

本文

793年のリンディスファーンの修道院への襲撃(ヴァイキングの襲来)から始まったヴァイキングの攻勢は、9世紀にはイングランドの大半を揺るがし、ウェセックスの王アルフレッドの抵抗(アルフレッド大王のウェセックス)を経て、10世紀にはイングランドの王たちがデーン人の住む土地まで取り戻した。半世紀ほど、大きな襲撃のない時代が続いた。だが980年代、王エゼルレッドの治世に入ると、北の海から再び船団がやって来るようになる。

991年の夏、93隻の船団がイングランドの南東の海岸を襲い、フォークストン、サンドウィッチ、イプスウィッチを荒らした。『アングロ・サクソン年代記』の一部の写本は、その率い手をノルウェーのオーラフ、のちのノルウェー王オーラフ・トリグヴァソンとしている。8月、船団はエセックスのブラックウォーター川の河口に入り、マルドンの町の近くの小島に陣を構えた。島と岸の間は、潮が引いたときだけ現れる細い土の道でつながっている。いまのノージー島と考えられている。

マルドンにあるビュルフトノスの現代の像(ジョン・ダブルデイ作)
マルドンにあるビュルフトノスの現代の像(ジョン・ダブルデイ作)Wikimedia Commons Oxyman · CC BY 2.5

迎え撃ったのは、エセックスの太守ビュルフトノースである。王に次ぐ地位の大貴族で、修道院を手厚く保護した信心深い人として知られ、このときすでに60歳を過ぎていたとみられる。彼は自分の家臣団と、地元の民兵を集めて岸に陣を敷いた。

この戦いの様子は、古英語で書かれた「マルドンの戦い」という詩に伝えられている。詩によれば、ヴァイキングの使者は川の向こうから、銀を払えば引き揚げてやると呼びかけた。ビュルフトノースは盾を掲げ、我々が払うのは槍と古い剣だ、と答えた。潮が引いて道が現れると、ヴァイキングは渡ろうとしたが、細い道はウルフスタンら3人の勇士に守られ、一人も渡れなかった。そこでヴァイキングは、道を渡らせて広い場所で戦わせてほしい、と頼む。ビュルフトノースはそれを許し、両軍は岸で向かい合った。詩はこの決断を、彼の「度を越した気概」のためだったと書く。この言葉が、過ぎた誇りを責めているのか、勇気をたたえているのかは、いまも読み方が分かれている。

マルドンの聖ペテロ教会の塔
マルドンの聖ペテロ教会の塔Wikimedia Commons Oxyman · CC BY 2.5

戦いは激しかった。ビュルフトノースは槍で傷を負い、なおも戦ったが、腕を斬られ、倒れて殺された。詩では、彼は最後に神に魂を委ねて死ぬ。そのとき、イングランドの側からゴドリックという者が、主君の馬に乗って逃げ出した。それを見た兵たちは、太守が逃げたと思い込み、多くが戦場を離れた。残った家臣たちは、主君の亡骸を守って一人また一人と斬り込み、死んでいった。

詩の終わり近くで、年老いた家臣ビュルフトウォルドは、仲間にこう呼びかける。我らの力が衰えるほどに、心はより固く、胸はより勇み、気はより大きくあれ。主君を失っても退かない忠誠を歌ったこの数行は、古英語の詩の中でもとくに名高い。ただし、詩がどこまで実際の戦いを写しているかは分からない。誰がどう戦ったかの細部は、詩人の創作を含むと考えられている。

ハイストリートのマルドン・ムートホール
ハイストリートのマルドン・ムートホールWikimedia Commons Poliphilo · CC0

詩は325行ほどが伝わり、始めと終わりは失われている。写本はロンドンの蒐集家コットンの文庫に収められていたが、1731年の火事で焼けた。同じ火事では『ベーオウルフ』の写本も傷ついている(『ベーオウルフ』の写本)。幸い、焼ける前に作られていた写しが残っていたため、詩はいまに伝わった。ビュルフトノースの遺体は、彼が保護したイーリーの修道院に葬られた。のちの修道院の記録は、首はヴァイキングに持ち去られ、代わりに蝋の球が添えられたと伝えている。

マルドンの敗北のあと、王エゼルレッドは、カンタベリー大司教シゲリクらの勧めで、銀1万ポンドを払ってヴァイキングを引き揚げさせた。このような支払いは、のちに「デーン人の金」と呼ばれる。払えば引き揚げるが、また来る。994年には1万6000ポンド、1002年には2万4000ポンド、1007年には3万6000ポンドと、額は膨らみ続けた。王はその銀を国中から税として集め、1002年にはイングランドに住むデーン人の殺害を命じて、かえって報復を招いた。エゼルレッドは後世「無策王」と呼ばれる。古英語の「助言の無い」という言葉を、彼の名の「よい助言」にかけたあだ名である。

1013年、デンマーク王スヴェンが大軍で攻め込み、エゼルレッドはノルマンディーに逃れた(スヴェンのイングランド征服)。スヴェンはまもなく死んだが、その息子クヌートが1016年にイングランドの王になる。スウェーデンやデンマークからは、この時代のイングランドの銀貨が大量に見つかっている。銀を払って時を稼ぐやり方は、結局、王国そのものを渡すことで終わった。

同じ時代のできごと

サモアとトンガの海の交流AD9〜15世紀カジュラーホーの寺院群AD10〜11世紀アズハル学院の創設AD972年『蜻蛉日記』AD974年(天延2年)頃南唐の滅亡AD975年ノルウェー人のグリーンランド入植AD985年頃ヴィンランド到達AD1000年頃源信『往生要集』AD985年(寛和元年)
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD991年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →