滝山城の攻防
概要
小田原へ向かう武田信玄の大軍が北条氏照の滝山城を攻めた戦い。城下は焼かれたが城は落ちなかった。
場所
35.70°N 139.33°E · 東京都八王子市
関わった人(3)
武田信玄AD1521年12月1日–AD1573年5月13日 · 2万の軍で城を攻める武田勝頼AD1546年–AD1582年4月3日 · 二の丸に迫ったと軍記が伝える北条氏康AD1515年–AD1571年 · 北条家の先代。氏照の父本文
永禄12年(1569年)の秋、甲斐の武田信玄の大軍が、北条氏照の守る武蔵の滝山城(いまの東京都八王子市)に攻め寄せた。城下は焼かれ、城の一部は破られたとされるが、氏照は城を守りきった。信玄は城を落とさないまま、後北条氏の本拠小田原へ向かった。
武田・北条・今川の三家は甲相駿三国同盟を結び、互いの背後を固めあっていた。ところが永禄11年(1568年)12月、信玄が今川氏真の駿河に攻め込んだことで同盟は崩れた。北条氏康(北条氏康)は今川を助けて武田と敵対し、長年の宿敵だった越後の上杉謙信と同盟を結んだ(越相同盟)。信玄は駿河を確保するため、北条の本国を直接揺さぶる遠征に出た。

滝山城は、多摩川と秋川が合わさる場所に近い加住丘陵の、入り組んだ地形を使った城である。山内上杉氏の重臣で武蔵の守護代だった大石氏が築いたと伝えられるが、確かではない。河越夜戦で北条が武蔵を押さえると、大石定久は氏康の三男氏照を娘婿に迎え、大石氏は事実上北条の軍門に下った。氏照は滝山城を大きく改修し、ここを拠点に西武蔵を治めた。改修の年は永禄元年(1558年)頃とする説と、永禄6年から10年のあいだとする説がある。
信玄の軍は碓氷峠を越えて上野に入り、氏照の弟北条氏邦が守る鉢形城を攻めた後、南へ下って滝山城の北の拝島に陣を敷いた。その数は約2万と伝えられる。別働隊の小山田信茂は、甲斐の郡内から小仏峠を越えて東へ進み、廿里(とどり、いまの八王子市)で迎え撃った北条方を蹴散らした。北条方の思いもよらない方角からの進入で、滝山城は北と西の両方から攻められることになった。

城を守る兵は2千ほどだったという。武田方の軍記『甲陽軍鑑』は、三の丸まで攻め込まれて城は落ちる寸前となり、二の丸では武田勝頼が自ら槍を振るって戦ったと書く。ただしこれは江戸時代に武田方の立場で書かれた話で、そのまま信じることはできない。氏照自身が10月24日付で上杉方の家臣に送った書状では、城下の宿の三つの入り口で戦ったと書いている。武田方の家臣の家に伝わる棟札には、氏照の居城滝山の城下に火を放って「裸城」にしたとある。少なくとも城下が焼かれ、激しい攻防があったことは確かである。
城が持ちこたえた理由として挙げられるのが縄張りである。滝山城は二の丸に守りを集中させるように造られ、その周りに千畳敷の角馬出、南馬出、大馬出、東馬出と、出入り口の前に小さな曲輪を置いて守る「馬出」がいくつも並ぶ。馬出を抜けても、土橋や枡形の虎口が攻め手を小分けにし、谷筋から入った敵は二の丸の櫓台から三方を囲むように狙われる。本丸の枡形虎口の発掘では、多摩川の河原石を敷いた石畳や暗渠が見つかっている。こうした造りは、同じ北条の山中城や八王子城にも受け継がれたと言われる。

信玄は滝山城を落とさないまま南へ向かい、10月初めに小田原城を囲んだが、数日で兵を引いた。帰り道の相模の三増峠で、追ってきた北条氏照・氏邦の軍と戦い、これを破って甲斐へ戻った。北条は本国を荒らされて駿河への援軍を出しにくくなり、信玄は翌年にかけて駿河の支配を固めていく。氏康が死んだ後の元亀2年(1571年)、北条は上杉との同盟を捨てて武田と和を結び直した。
このとき守りの弱さを思い知ったことが、氏照が新たに八王子城を築いて移るきっかけになったとも言われるが、確かな根拠は無い。実際には氏照はその後も長く滝山城を政庁として使い、領内の村に滝山への出頭を命じる文書を何通も出している。八王子城に本拠を移したのは天正15年(1587年)前後とされる。天正18年(1590年)の秀吉の天下統一(小田原攻め)で八王子城は落ち、氏照は兄の氏政とともに切腹した。
滝山城の城下町は、八王子城の城下を経て、江戸時代にいまの八王子の中心へ移った。八王子駅の北口近くの八幡町・横山町・八日町はその流れをくみ、これを「三宿三転」と呼ぶ。城跡は1951年に国の史跡となり、本丸・中の丸・空堀・馬出がよく残っていることから、中世の城の傑作とも言われる。