概要
1995年11月、アメリカのオハイオ州デイトンの空軍基地に、セルビア、クロアチア、ボスニアの大統領が3週間閉じ込められるようにして話し合い、21日、ボスニア紛争を終わらせる合意に達した。仲介したのはアメリカの外交官リチャード・ホルブルックである。夏のスレブレニツァの虐殺のあと、NATOの空爆とクロアチア軍の攻勢で、戦いの形勢が変わっていた。ボスニアは一つの国として残るが、中はボシュニャク人とクロアチア人の連邦と、セルビア人の共和国の二つに分けられ、大統領は三民族から一人ずつ出す。戦争は止まったが、民族ごとに分かれた国の仕組みは、いまも残っている。
場所
39.83°N -84.05°E · アメリカ・オハイオ州(ライト・パターソン空軍基地)
本文
1995年の夏、ボスニアの戦争は四年目に入っていた。7月、国連の「安全地帯」とされていたスレブレニツァが落ち、8千人を超えるムスリムの男性と少年が殺された(スレブレニツァの虐殺)。8月、クロアチア軍は、セルビア人が占めていた地域を一気に取り返し、20万人ほどのセルビア人が逃げ出した。サラエヴォの市場への砲撃の後、NATOは本格的な空爆を始める。戦いの形勢が変わり、アメリカはこの機を捉えて和平を押し進めた。
11月1日、セルビアのミロシェヴィッチ、クロアチアのトゥジマン、ボスニアのイゼトベゴヴィッチの三人の大統領が、オハイオ州デイトンのライト・パターソン空軍基地に集められた。外の記者から切り離し、話がまとまるまで帰さないという、アメリカの外交官リチャード・ホルブルックの考えだった。地図の上の一本の線をめぐって、三週間、交渉が続いた。
11月21日、合意が成り立った。ボスニア・ヘルツェゴヴィナは一つの国として国境を保つ。しかし国の中は、ボシュニャク人とクロアチア人の連邦と、セルビア人の共和国の二つの「構成体」に分け、領土をおよそ半分ずつにする。国の大統領は三民族から一人ずつ選ばれ、交代で議長を務める。国際社会が送る「上級代表」が、法律を定め、公職者を辞めさせる強い権限を持つ。12月14日、合意はパリで正式に署名された。
合意は戦争を止めた。6万人のNATOの部隊が入り、その後二十年以上、大きな戦いは起きていない。一方で、民族ごとに分けた仕組みは、そのまま固まった。学校は民族ごとに分かれ、ユダヤ人やロマなど三民族以外の人は大統領に立候補できない。欧州人権裁判所はこれを差別と判断したが、改められていない。ミロシェヴィッチは、この合意のあと、コソヴォで次の戦争を始める(コソヴォ紛争とNATOの空爆)。