クレーターの戦い
概要
北軍は南軍の陣地の下に坑道を掘って爆破したが、突撃した兵がその穴に入り込んで動けなくなり、反撃で大損害を出した。
場所
37.22°N -77.38°E · アメリカ合衆国・ヴァージニア州
関わった人(2)
ユリシーズ・グラントAD1822年4月27日–AD1885年7月23日 · 北軍の総司令官ロバート・E・リーAD1807年1月19日–AD1870年10月12日 · 南軍の司令官本文
1864年7月30日の明け方、ヴァージニア州ピーターズバーグの郊外で、南軍の陣地の真下に仕掛けられた大量の火薬が爆発した。土と人と大砲が空へ舞い上がり、長さ50メートルを超える大きな穴ができた。北軍はここから南軍の防衛線を突き破るはずだった。ところが、突撃した兵がその穴の中へ入り込み、出られなくなった。南北戦争の末期に起きた、クレーターの戦いである。
ピーターズバーグは南部の首都リッチモンドの南にある鉄道の要所で、南からの4本の線路がここで合わさっていた。南軍の補給の多くがこの町を通った。1864年6月、北軍の総司令官ユリシーズ・グラントはこの町を奪おうとしたが、ロバート・E・リーの南軍に止められた。両軍は塹壕と土塁を何十キロも掘り並べてにらみ合い、包囲戦というより長い塹壕戦になった。

膠着を破る案を出したのは、北軍第48ペンシルヴェニア連隊の連隊長ヘンリー・プレザンツ中佐だった。平時は鉱山技師で、連隊には炭鉱夫が多かった。南軍の陣地の下まで坑道を掘り、真下で爆薬を爆発させれば、守備兵を吹き飛ばして防衛線に穴をあけられる。軍団長のアンブローズ・バーンサイドが案を認めた。グラントやミードは、兵に仕事を与えるくらいのものだと見て、期待していなかったとされる。
掘削は6月の終わりに始まった。資材は乏しく、兵は木材を自分で集め、土は手で掘って箱で運び出した。換気は、入口近くの縦穴で火を焚いて汚れた空気を吸い出し、木の管で新しい空気を送り込む工夫で解決した。坑道は長さ約156メートルに達し、先端で左右に枝分かれさせて、そこに火薬320樽、約3.6トンを詰めた。

攻撃のために、バーンサイドは黒人兵からなる合衆国有色人部隊の師団を選び、2週間かけて手順を訓練した。穴に入らず左右を回り込み、奥の道路まで一気に進む段取りだった。ところが攻撃の前日、ポトマック軍司令官のジョージ・ミードがこの師団を先頭に立てることを禁じた。失敗すれば黒人兵を無駄に死なせたと北部で非難される、というのが理由で、グラントもこれに同意した。代わりの師団はくじ引きで選ばれ、ジェームズ・レドリーの師団に決まった。この師団は手順を知らされていなかった。
7月30日、導火線に火がつけられたが、途中の継ぎ目で消えてしまい、2人の兵が坑道に這い込んで継ぎ直した。午前4時44分、火薬が爆発した。南カロライナ連隊の兵278人が即死し、長さ約52メートル、深さ9メートルを超える穴が残った。南軍はしばらく反撃できなかったが、北軍の突撃は遅れた。ようやく進んだ兵は穴を格好の隠れ場所と考えて中へ下り、穴は兵で埋まった。斜面は急で、登って先へ進むことができなかった。
その間に南軍のウィリアム・マホーン准将が兵を集め、穴の縁から銃と砲弾を浴びせた。マホーンはのちにこれを七面鳥撃ちにたとえた。グラントは攻撃の中止を命じたが、バーンサイドは後から黒人兵の師団も送り込み、彼らも穴に追い込まれた。降伏しようとした黒人兵の多くがその場で殺された。レドリーとこの師団の指揮官は、戦いの間、後方の待避壕で酒を飲んでいたことが後の調べで分かった。
北軍の損害は約3800人、南軍は約1500人だった。グラントはのちに、この戦争で見たもっとも悲しい出来事だったと書いている。バーンサイドは指揮から外され、二度と部隊を任されなかった。レドリーも軍を去った。
早くピーターズバーグを落とす最大の機会を逃したことで、塹壕戦はさらに8か月続いた。町が落ちたのは1865年4月で、その直後にリッチモンドも陥落し、南軍はアポマトックスの降伏に至る。爆発でできた穴は、いまもピーターズバーグ国立戦場跡にくぼ地として残っている。