できごと

クレーターの戦い

Battle of the Crater
AD1864年7月30日
重要度 2
大英帝国カナダアメリカ合衆国デンマークアメリカ合衆国ヌエバ・エスパーニャ副王領ヌエバ・グラナダ副王領スペイン帝国スペインAD1864年7月30日ピーターズバーグ(クレーター)
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1864年7月30日の版図を描いています(9勢力)。

概要

北軍は南軍の陣地の下に坑道を掘って爆破したが、突撃した兵がその穴に入り込んで動けなくなり、反撃で大損害を出した。

場所

ピーターズバーグ(クレーター)
37.22°N -77.38°E · アメリカ合衆国・ヴァージニア州

関わった人(2)

ユリシーズ・グラントAD1822年4月27日–AD1885年7月23日 · 北軍の総司令官ロバート・E・リーAD1807年1月19日–AD1870年10月12日 · 南軍の司令官

本文

1864年7月30日の明け方、ヴァージニア州ピーターズバーグの郊外で、南軍の陣地の真下に仕掛けられた大量の火薬が爆発した。土と人と大砲が空へ舞い上がり、長さ50メートルを超える大きな穴ができた。北軍はここから南軍の防衛線を突き破るはずだった。ところが、突撃した兵がその穴の中へ入り込み、出られなくなった。南北戦争の末期に起きた、クレーターの戦いである。

ピーターズバーグは南部の首都リッチモンドの南にある鉄道の要所で、南からの4本の線路がここで合わさっていた。南軍の補給の多くがこの町を通った。1864年6月、北軍の総司令官ユリシーズ・グラントはこの町を奪おうとしたが、ロバート・E・リーの南軍に止められた。両軍は塹壕と土塁を何十キロも掘り並べてにらみ合い、包囲戦というより長い塹壕戦になった。

1870〜80年頃のユリシーズ・グラント
ユリシーズ・グラントWikimedia Commons Brady-Handy Photograph Collection, Library of Congress · Public domain

膠着を破る案を出したのは、北軍第48ペンシルヴェニア連隊の連隊長ヘンリー・プレザンツ中佐だった。平時は鉱山技師で、連隊には炭鉱夫が多かった。南軍の陣地の下まで坑道を掘り、真下で爆薬を爆発させれば、守備兵を吹き飛ばして防衛線に穴をあけられる。軍団長のアンブローズ・バーンサイドが案を認めた。グラントやミードは、兵に仕事を与えるくらいのものだと見て、期待していなかったとされる。

掘削は6月の終わりに始まった。資材は乏しく、兵は木材を自分で集め、土は手で掘って箱で運び出した。換気は、入口近くの縦穴で火を焚いて汚れた空気を吸い出し、木の管で新しい空気を送り込む工夫で解決した。坑道は長さ約156メートルに達し、先端で左右に枝分かれさせて、そこに火薬320樽、約3.6トンを詰めた。

ロバート・E・リーの肖像
ロバート・E・リーWikimedia Commons Julian Vannerson · Public domain

攻撃のために、バーンサイドは黒人兵からなる合衆国有色人部隊の師団を選び、2週間かけて手順を訓練した。穴に入らず左右を回り込み、奥の道路まで一気に進む段取りだった。ところが攻撃の前日、ポトマック軍司令官のジョージ・ミードがこの師団を先頭に立てることを禁じた。失敗すれば黒人兵を無駄に死なせたと北部で非難される、というのが理由で、グラントもこれに同意した。代わりの師団はくじ引きで選ばれ、ジェームズ・レドリーの師団に決まった。この師団は手順を知らされていなかった。

7月30日、導火線に火がつけられたが、途中の継ぎ目で消えてしまい、2人の兵が坑道に這い込んで継ぎ直した。午前4時44分、火薬が爆発した。南カロライナ連隊の兵278人が即死し、長さ約52メートル、深さ9メートルを超える穴が残った。南軍はしばらく反撃できなかったが、北軍の突撃は遅れた。ようやく進んだ兵は穴を格好の隠れ場所と考えて中へ下り、穴は兵で埋まった。斜面は急で、登って先へ進むことができなかった。

その間に南軍のウィリアム・マホーン准将が兵を集め、穴の縁から銃と砲弾を浴びせた。マホーンはのちにこれを七面鳥撃ちにたとえた。グラントは攻撃の中止を命じたが、バーンサイドは後から黒人兵の師団も送り込み、彼らも穴に追い込まれた。降伏しようとした黒人兵の多くがその場で殺された。レドリーとこの師団の指揮官は、戦いの間、後方の待避壕で酒を飲んでいたことが後の調べで分かった。

北軍の損害は約3800人、南軍は約1500人だった。グラントはのちに、この戦争で見たもっとも悲しい出来事だったと書いている。バーンサイドは指揮から外され、二度と部隊を任されなかった。レドリーも軍を去った。

早くピーターズバーグを落とす最大の機会を逃したことで、塹壕戦はさらに8か月続いた。町が落ちたのは1865年4月で、その直後にリッチモンドも陥落し、南軍はアポマトックスの降伏に至る。爆発でできた穴は、いまもピーターズバーグ国立戦場跡にくぼ地として残っている。

動画(1)

たった1つが大惨事!戦争の凡ミス3選【最悪の落とし物・新撰組解散の宴会・沖縄戦の前の悲劇】非株式会社いつかやる戦争の凡ミス三選の一つとして穴に入り込んだ北軍の失敗を語る

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