人物

デキウス

Decius
AD201年頃 – AD251年(享年50・推定)
ローマ帝国重要度 2

概要

ドナウの軍から皇帝になり、帝国中の住民に神々への犠牲を命じ、証明書を持たせた。キリスト教徒の全帝国での迫害はこれが最初。ゴートとの戦いで、皇帝として最初に戦死した。

所属

ローマ帝国

関わったできごと(1)

デキウスの迫害AD250年 · 皇帝

本文

デキウスは、201年頃、ドナウ川に近いパンノニアの地、いまのセルビアのシルミウムの近くの村に生まれた。正式な名はガイウス・メッシウス・クィントゥス・デキウスという。帝国の辺境の生まれだったが、元老院の議員となり、執政官を務め、いくつかの属州の総督を歴任した。3世紀のローマで、皇帝の多くが軍の兵士から成り上がっていく中で、デキウスは元老院の伝統的な出世の道を歩んだ人物だった。

彼が生きた3世紀の半ばは、ローマ帝国が「三世紀の危機」と呼ばれる混乱のさなかにあった(三世紀の危機)。皇帝は軍に推されては殺され、次々に入れ替わった。東ではササン朝ペルシアが攻め込み、北ではゴート人などの諸民族がドナウ川とライン川を越えて侵入した。貨幣の質は落ち、疫病も広がった(キプリアヌスの疫病)。かつてトラヤヌスのもとで最大の版図を誇った帝国は、内側からも外側からも揺らいでいた。

キプリアヌスの疫病に関わる図版:Heiliger Cyprianus
キプリアヌスの疫病Wikimedia Commons Master of Messkirch · Public domain

249年、皇帝フィリップスは、ドナウ川の方面で起きた軍の反乱を鎮めるため、デキウスを派遣した。デキウスが反乱を鎮めると、兵士たちは彼を新しい皇帝に推し立てた。デキウスは、自分は望まなかったと言ったと伝えられるが、そのまま軍を率いてイタリアへ向かい、北イタリアのウェローナの近くでフィリップスの軍を破った。フィリップスは戦死し、デキウスが皇帝となった。

皇帝となったデキウスは、名前に「トラヤヌス」を加えた。2世紀の名君トラヤヌスの時代のような、強く秩序あるローマを取り戻す、という意思表示だった。彼が考えた立て直しの柱は、ローマの古い神々への信仰を、帝国じゅうで確かめることだった。帝国が神々の恵みを失っているから災いが続くのだとすれば、すべての住民が神々を敬い、帝国の安泰を祈らなければならない。

サルミゼゲトゥサ出土のデキウス帝の青銅頭像(ルーマニア国立歴史博物館)
サルミゼゲトゥサ出土のデキウス帝の青銅頭像(ルーマニア国立歴史博物館)Wikimedia Commons Laci3 · CC0

249年の末から250年の初めにかけて、デキウスは勅令を出した。帝国のすべての住民は、決められた日までに神々に犠牲をささげ、その供物の肉を食べ、皇帝の安泰を祈らなければならない。役人の前で儀式を済ませた者には、それを証明する書き付けが渡された。エジプトの砂の中からは、こうした証明書が数十通見つかっている。自分は昔から神々に犠牲をささげてきた、いまもあなた方の前で犠牲をささげた、と書かれ、役人の署名が添えられている。

この勅令は、キリスト教徒をはっきりと狙ったものではなかったとも考えられている。だが、唯一の神しか拝まないキリスト教徒にとって、ほかの神々に犠牲をささげることは、信仰を捨てることだった。拒めば、捕らえられ、拷問され、殺された。250年1月、ローマの司教ファビアヌスが殉教し、ローマの司教の座はその後1年以上空いたままになった。アレクサンドリアの大学者オリゲネスも捕らえられて拷問を受け、その傷がもとで数年後に亡くなったとされる。帝国全体で、キリスト教徒が組織的に迫害されたのは、これが初めてだった。

デキウスの迫害に関わる図版:Byzantine icon St-Mercurius 1295
デキウスの迫害Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

カルタゴの司教キプリアヌスは、身を隠して信徒を指導した。彼は手紙の中で、デキウスはローマに皇帝の対抗者が現れることより、神の司教が立つことのほうを嫌がった、という意味のことを書いている。迫害の中では、殉教した者だけでなく、命を守るために犠牲をささげた者も大勢いた。迫害が終わると、一度信仰を捨てた者を教会に迎え入れるかどうかをめぐって、教会は激しく割れることになった。

そのころ、ドナウ川の向こうから、クニウァ王の率いるゴート人が大挙して攻め込んできた。デキウスは自ら軍を率いて迎え撃ったが、ベロエの近くで不意を突かれて敗れ、トラキアの大きな町フィリッポポリスはゴート人の手に落ちた。251年6月、デキウスは、帰ろうとするゴートの軍を、いまのブルガリアの北東のアブリットゥスで捕らえようとした。だがゴート人は沼地に罠を張っていた。戦いの中で、ともに皇帝の位にあった息子のヘレンニウスが矢に当たって倒れた。デキウスは、兵士が一人倒れただけだ、と言って兵を励ましたと伝えられる。だが、ローマ軍は沼に足を取られて壊滅し、デキウス自身も戦死した。その遺体は見つからなかった。

ローマの皇帝が外敵との戦いで命を落としたのは、これが初めてだった。後を継いだトレボニアヌス・ガッルスは、ゴート人に金を払い、捕虜と戦利品を持ったまま帰らせるしかなかった。元老院はデキウスを神として祀ったが、帝国の混乱はその後も続き、260年には皇帝ウァレリアヌスがペルシアの捕虜になる(ローマ皇帝が捕らわれる)。

キリスト教徒の側から見れば、デキウスは神の敵だった。4世紀の初めに、キリスト教の著述家ラクタンティウスは、迫害者たちの最期を描いた本の中で、デキウスは葬られることもなく、獣と鳥の餌となって野に横たわった、と書いた。その後もキリスト教徒への迫害は繰り返され、4世紀初めのディオクレティアヌスの大迫害で頂点に達する。古い神々によって帝国を一つにまとめようとしたデキウスの試みは、結果として、帝国とキリスト教の対立を、誰の目にも見える形にしたのである。

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