カランセベシュの戦い
概要
1788年、墺土戦争の夜間行軍中にオーストリア軍が恐慌に陥り、味方同士で撃ち合ったとされる出来事。詳細には後世の脚色が多い。
場所
45.42°N 22.22°E · ルーマニア・カラシュ=セヴェリン県
関わった人(1)
マリア・テレジアAD1717年5月13日–AD1780年11月29日 · 皇帝ヨーゼフ2世の母本文
カランセベシュの戦いは、1788年9月21日から22日にかけての夜、いまのルーマニア西部のカランセベシュ近くで、オーストリア軍が敵のいないまま味方同士で撃ち合い、大混乱に陥ったとされる出来事である。「歴史上最悪の味方撃ち」と呼ばれることもある。ただし、よく知られた話の細部には後世の脚色が多く、確かなことは意外に少ない。
18世紀の後半、ハプスブルク家のオーストリアとロシアは、南のオスマン帝国に対して手を組んでいた。1787年にオスマン帝国がロシアに宣戦すると、オーストリアの皇帝ヨーゼフ2世は同盟に従い、翌1788年にオスマン帝国との戦争に入った。母マリア・テレジアの死後、上からの改革を急いだ啓蒙専制君主として知られるヨーゼフ2世は、自ら軍を率いてバナト地方(いまのルーマニア西部とセルビア北部)へ出陣した。しかし戦いは思うように進まず、軍はマラリアや赤痢に苦しんでいた。この年の遠征でオーストリア軍は数万の兵を失ったが、公式の報告はその大半を戦闘ではなく病によるものとしている。

9月、オスマン軍が迫るなか、オーストリア軍は夜のうちに陣を移す行軍に出た。その途中で軍は説明のつかない恐慌に襲われる。19世紀の歴史家シュロッサーの記述によれば、兵たちは敵に襲われると思い込んで隊列を乱し、国境地帯から来た味方の部隊を敵と見誤った。連隊どうしが撃ち合い、いない敵を探して混乱は広がった。皇帝自ら射撃をやめさせようとしたが果たせず、随員とはぐれて道に迷い、捕らえられたのではないかと思われたほどだったという。オスマン軍はこの混乱に乗じて、戦わずにカランセベシュを手に入れた。
よく語られる筋書きは、もっと劇的である。偵察に出た軽騎兵が川を渡り、地元の人々から蒸留酒を買って酒盛りをしていた。後から来た歩兵が酒を分けろと迫って口論になり、誰かが1発撃ったのをきっかけに撃ち合いになった。そこへ誰かが「トルコ人だ」と叫び、皆が逃げ出す。軍はオーストリア人、ルーマニア人、セルビア人、クロアチア人、イタリア人などの寄り合いで言葉が通じず、将校がドイツ語で叫んだ「止まれ(ハルト)」が「アッラー」と聞こえた。さらに砲兵の将軍が騎兵の突撃と思い込んで大砲を撃たせた、という。だが、この話の多くは事件から何十年もたってから書かれたもので、記録の空白を埋めるための誇張や潤色が含まれていると考えられている。
この夜の出来事は「戦い」と呼ばれるが、実際にはオスマン軍と正面から刃を交えた戦いではない。
損害もよく分かっていない。後衛の死傷者を150人とする記録、数日のうちに1000人の負傷者が要塞に運ばれたとする記録、行方不明者は500人余りで大半はのちに戻ったという記録などがあり、大砲3門と軍の給与を入れた箱も失われたとされる。広く知られる「死傷者1万人」という数字は、1968年に出たヨーゼフ2世の伝記が出典を示さずに書いたもので、それがほかの本に引き写されて広まった。味方撃ちによる損害、オスマン軍による損害、混乱に紛れた略奪による損害も、記録では区別されていない。
それでも、オスマン軍が戦わずに要地を得たこと、当時の新聞がオーストリア軍の損害を伝えていることから、何らかの大きな同士討ちの混乱があったことは確かだと考えられている。記録が少ないのは、オーストリア側が不名誉な詳細を隠そうとしたためかもしれない。ヨーゼフ2世はこの遠征のあと体を壊し、1790年に死んだ。戦争は1791年、オーストリアがほとんど得るもののないまま講和で終わった。暗闇と恐怖と言葉の壁が軍を内側から崩すという話は、細部の真偽を超えて、戦史の教訓として語り継がれている。