概要
1923年9月1日の関東大震災で、東京の下町は火の海になり、市街の4割あまりが焼けた。内務大臣の後藤新平は、これを機に、近代の都市を一から作り直そうとした。9月27日、帝都復興院が作られ、後藤が総裁に就いた。後藤は欧米の都市にならった壮大な計画を掲げたが、議会と財界の反対で予算は大きく削られ、「大風呂敷」と呼ばれた計画は縮められた。それでも、焼け跡の土地を区画し直して道を広げ、昭和通りなどの大通り、隅田川に架かる鉄の橋、公園、鉄筋コンクリートの小学校が造られ、1930年に復興の完成が祝われた。
場所
35.68°N 139.77°E · 日本・東京都
本文
1923年9月1日の正午前、相模湾を震源とする大地震が関東を襲った(関東大震災)。ちょうど昼の食事の支度の時刻で、東京の下町では各所から火が出た。火は強風にあおられて二日間燃え続け、東京の市街の4割あまりを焼き尽くした。東京と横浜を中心に、死者と行方の分からない人は十万人を超えた。
地震の翌日に発足した山本権兵衛の内閣で、内務大臣になったのは後藤新平だった。後藤は、台湾の民政長官や満鉄の総裁、東京市長を務め、都市づくりに強い関心を持っていた。後藤は、焼け野原になった東京を、欧米の都市に負けない近代の都に作り変える好機だと考えた。地震の直後、彼は遷都はしない、欧米の最新の都市計画を採り入れる、と方針を示し、アメリカの歴史家で都市行政の専門家チャールズ・ビアードを再び招いた。
9月27日、復興の計画を立て実行する帝都復興院が作られ、後藤が総裁に就いた。後藤が描いた計画は、焼けた土地を国がいったん買い上げ、幅の広い道路と公園を縦横にめぐらせる壮大なもので、費用は数十億円と見積もられた。国の一年の予算を大きく超える額だった。財界と、土地の持ち主と、議会の政友会は強く反対し、計画は「大風呂敷」と揶揄された。12月の議会で、予算は大きく削られ、帝都復興院そのものも翌年2月に廃止された。
それでも、縮められた計画のもとで、復興の事業は進められた。焼けた市街のほとんどで、土地の区画を整理し、持ち主から少しずつ土地を出させて、道を広げ、まっすぐにした。幅の広い昭和通りや大正通り(いまの靖国通り)などの幹線の道路が造られ、隅田川には、永代橋や清洲橋など、形の違う鉄の橋が架けられた。隅田公園や浜町公園などの大きな公園と、小学校に隣り合う小さな公園が整えられた。小学校は、燃えない鉄筋コンクリートで建て直された。
1930年3月、帝都復興祭が開かれ、復興の完成が祝われた。後藤の計画のすべてが実現したわけではないが、このとき整えられた道路と橋と公園は、いまの東京の下町の骨格になっている。だが、その町も、15年後の1945年3月の空襲で、再び焼け野原になった(東京大空襲)。