できごと

ブロイラーの誕生

Broiler
AD1923年
重要度 4
大英帝国カナダアメリカ合衆国アメリカ合衆国デンマークメキシコDominion of NewfoundlandニカラグアホンジュラスキューバグアテマラAD1923年デルマーバ半島
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1923年の版図を描いています(11勢力)。

概要

デラウェアの主婦セシル・スティールが、注文した50羽の代わりに500羽の雛を受け取った。返さずに育てて売ったところ儲かった。数年で彼女は数万羽を飼っていた。それまで鶏は卵を取るもので、肉は廃鶏だった。ビタミンDの発見で日光なしに屋内飼育ができるようになり、抗生物質と配合飼料と、1948年の「明日のチキン」品評会による品種改良が続いた。1920年に出荷まで16週・体重1.1kgだったものが、いまは6週・2.7kgである。世界の鶏は230億羽を超える。

場所

デルマーバ半島
38.45°N -75.55°E · アメリカ・デラウェア州

本文

20世紀の初めまで、鶏は卵を取るために飼う生き物だった。農家の庭に数羽から数十羽を放し、台所の残り物や、庭で拾う虫や草を食べさせる。肉として食卓に上るのは、卵を産まなくなった年寄りの雌鳥か、余分に生まれた雄の雛だった。年を取った雌鳥の肉は硬く、長く煮込まなければ食べられない。若い鶏を焼いて食べるのは、日曜日や祝日や客を迎える日のごちそうだった。フランス王アンリ4世が言ったと伝えられる「日曜ごとに、すべての農民の鍋に鶏を」という言葉は、それがどれほど贅沢な願いだったかを示している。

鶏をたくさん、屋根の下で飼うことはできなかった。日の光に当たらない鶏は骨が曲がり、やがて立てなくなる。くる病である。原因が分からないまま、鶏は外に出しておくしかなかった。外に出せば、寒さや雨や、狐や鷹、病気にさらされる。飼える数には自然と限りがあった。

飼育されるブロイラー(2018年、オーストラリア)
飼育されるブロイラー(2018年、オーストラリア)Wikimedia Commons Animals Uncovered · CC BY 4.0

1923年、アメリカのデラウェア州オーシャンビューという小さな町で、セシル・スティールという女性が、卵を取るための雛を50羽注文した。夫のウィルマーは沿岸警備隊員で、家を空けることが多かった。ところが孵化場の手違いで、届いたのは500羽だった。彼女は余分な450羽を送り返さず、自分で育てることにした。

家に近い小屋で石炭ストーブを焚いて暖め、餌を与えた。生き残った387羽は1羽およそ2ポンド(900グラムあまり)に育ち、1ポンドあたり62セントという当時としては良い値で売れた。卵ではなく、肉にするための若鶏として売ったのである。

鶏舎に運び込まれる生後1日のヒナ
鶏舎に運び込まれる生後1日のヒナWikimedia Commons Joe Valbuena · Public domain

儲けになると分かると、彼女は翌年、倍の1000羽を飼った。夫は沿岸警備隊を辞めて家業に加わり、1935年ごろには、夫婦は七つの農場で年に3万5000羽を育てるまでになった。近所の農家もこぞって真似を始めた。デラウェア、メリーランド、ヴァージニアの3州にまたがるデルマーヴァ半島は、アメリカで最初の大きな肉用鶏の産地になった。ワシントンやフィラデルフィア、ニューヨークといった大都市が近く、生きた鶏を運ぶのに都合がよかった。

ちょうどその頃、鶏を屋内に閉じ込めて育てるための発見が重なっていた。1922年、エルマー・マッカラムらが、くる病を防ぐのは日光そのものではなく、のちにビタミンDと名づけられる物質であることを示した(ビタミン研究の流れは脚気とビタミンの発見に詳しい)。タラの肝油を餌に混ぜれば、日に当てなくても鶏の骨は丈夫に育つ。これで、窓の少ない大きな鶏舎に何千羽も入れて飼う道が開けた。トウモロコシと大豆かすを土台に、ビタミンとミネラルを計算して加えた配合飼料も広まった。

1940年代の終わりには、もう一つの発見があった。1948年ごろ、レダリー研究所のトマス・ジュークスらが、餌にごく少量の抗生物質を混ぜると、病気を防ぐだけでなく、鶏の育ちが速くなることを見いだした。なぜ速くなるのかは、いまも完全には分かっておらず、腸の中の細菌の働きが変わるためと考えられている。抗生物質のおかげで、狭いところにたくさんの鶏を詰め込んでも病気が広がりにくくなった。しかし、育ちを速めるための抗生物質の使用は、のちに薬の効かない細菌を生む原因として問題になる。ヨーロッパ連合は2006年に、アメリカは2017年に、この目的での使用を禁じた。

品種も作り変えられた。1948年、食料品チェーンのA&Pが農務省の協力を得て、「明日のチキン」と名づけた全米規模の品評会を開いた。胸と脚に肉がたっぷり付き、速く育つ鶏を作れ、という課題である。各地の予選を勝ち抜いた鶏を同じ条件で育て、絞めて、肉の付き方と重さで審査した。

1948年の決勝で勝ったのは、カリフォルニアのチャールズ・ヴァントレスがコーニッシュとニューハンプシャーを掛け合わせた鶏だった。その血統は世界の肉用鶏の土台の一つになり、ヴァントレスの名はいまも種鶏会社の社名に残っている。現在、世界の肉用鶏の元になる種鶏は、ほんの数社が実質的に握っている。

数字で見ると、変化のすさまじさが分かる。アメリカの業界団体のまとめでは、1925年の肉用鶏は出荷まで112日かかり、重さは1キロあまり、1キロ太らせるのに4.7キロの餌が要った。いまは7週足らずで3キロ近くになり、必要な餌は2キロを切る。1950年代の系統と現代の系統を同じ餌と同じ条件で育て比べた研究では、同じ日齢で現代の系統が数倍の重さになった。変わったのは餌や薬ではなく、鶏そのものだった。

産業の形も変わった。1940年代、ジョージア州の飼料商ジェシー・ジュエルは、農家に雛と餌を貸し、育った鶏を買い取る方式を始めた。やがて一つの会社が、種鶏と孵化場と飼料工場と処理場と流通をまとめて押さえる垂直統合が当たり前になる。農家は契約生産者になり、会社から雛と餌と薬を受け取って育て、引き渡す。

鶏舎を建てる金は農家が借りて出すが、鶏は農家のものではない。報酬は、同じ会社と契約するほかの農家と成績を比べて決められる。値段を決めることはできず、買い手は一社しかない。多くの農家が借金と薄い利益に苦しんでいるという報告は、何度も繰り返し出されている。フォードの流れ作業が車を流れ作業にしたように、鶏の一生が工程に組み込まれたのである。

食べ方も変わった。かつては丸ごと1羽で売られていた鶏は、処理場で胸と脚と手羽に切り分けられ、冷やしたまま遠くの店へ運ばれるようになった(コールドチェーン)。安く大量に手に入る肉は、ハンバーガーの店が広めたマクドナルドの流れ作業の仕組みとも相性がよかった。1980年代には、骨を外して衣を付けて揚げる小さな塊がファストフードの定番になり、鶏肉は「ごちそう」から、いちばん手軽な肉に変わった。

鶏肉は、世界でいちばん多く食べられる肉の一つになった。地球上には常に230億羽あまりの鶏がいて、毎年700億羽を超える鶏が食肉にされる。陸に住む脊椎動物の中でいちばん数の多い種であり、地球上の鳥の重さを合わせると、その7割ほどを鶏などの家禽が占めるという見積もりもある。2018年、地質学者らは、現代の肉用鶏の骨が祖先とも20世紀半ばの鶏とも形や成分が違うことを指摘し、この骨が人類の時代を示すもっとも分かりやすい化石の目印になるだろうと論じた。

速く育つことには代償もある。体重の増え方に骨と関節が追いつかず、脚を痛めて歩けなくなる鶏が多い。心臓と肺が体の大きさに見合わず、急に死ぬものもいる。長く座り込んでいるので、敷きわらのアンモニアで胸や脚がただれる。肉用鶏を産む親鳥は、そのまま食べさせると太りすぎて繁殖できなくなるため、餌を絞られ、いつも空腹のまま飼われる。2016年ごろからは、ゆっくり育つ品種や飼う密度の上限を求める企業の取り組みも広がり始めた。

セシル・スティールは、自分が始めたものの大きさを見届けなかった。1940年、夫と客を乗せた船の機関が爆発する事故で、夫を助けようと水に飛び込み、命を落とした。40歳だった。デラウェア州には、彼女の鶏舎が肉用鶏産業の始まりだったことを記す標識が立っている。注文の50羽が、手違いで500羽になって届いたところから始まった話である。

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