オスカー・シンドラー
概要
ナチ党員の事業家が、工場の労働者として1200人のユダヤ人を収容所から買い戻した。戦後は事業に失敗し、救った人たちの援助で暮らした。
関わったできごと(1)
ホロコースト1941年 · 1200人を救った本文
1908年4月28日、オーストリア=ハンガリーのモラヴィア地方の町ツヴィッタウ(いまのチェコのスヴィタヴィ)で生まれた。ドイツ語を話す家で、父は農業機械の商いをしていた。第一次世界大戦の後、町はチェコスロヴァキア領になり、ズデーテン地方のドイツ人として育つ。学校では技術を学んだが、オートバイの競走や酒、女性との遊びを好み、商売を転々とした。1928年に結婚した妻エミーリエとの暮らしも、穏やかなものではなかった。

1930年代、チェコスロヴァキアのドイツ人のあいだで、ナチスと結んでドイツへの併合を求める運動が強まった。シンドラーはズデーテン・ドイツ人党に入り、ドイツ軍の情報部(アプヴェーア)の協力者として、チェコスロヴァキアの鉄道や軍の施設を探った。1938年、スパイとしてチェコの当局に捕まり、重い刑を受けかねない立場に置かれたが、ミュンヘン会談でズデーテン地方がドイツに併合されたため釈放された。翌年、ナチ党に入党している。
ドイツ本国では1938年11月に水晶の夜が起き、ユダヤ人への迫害はすでに公然の暴力になっていた。1939年9月、ドイツがポーランドに攻め込んだ。シンドラーは占領下のクラクフへ乗り込み、ユダヤ人の持ち主から接収されたほうろう製品の工場を手に入れた。ユダヤ人の会計士イツハク・シュテルンの助言を受け、ユダヤ人の資本も使っている。ドイツ軍向けの食器を作り、やがて砲弾の部品も手がけた。闇市場で酒やたばこを手に入れ、ナチ親衛隊の将校たちを接待して取り入った。
労働者には、ゲットーのユダヤ人を使った。賃金は本人ではなく親衛隊に払う仕組みで、ポーランド人を雇うより安かった。最初の動機は利益だったと考えられている。
そこから、変わっていった。1943年3月、クラクフのゲットーが解体された。親衛隊は住民を郊外のプワシュフ強制収容所へ追い立て、働けない者をその場で殺した。シンドラーがその様子を丘の上から見たことが転機だった、と後に伝えられている。プワシュフの所長アーモン・ゲートは、気まぐれに囚人を撃ち殺す人物だった。シンドラーはゲートに賄賂を贈り、自分の工場の敷地に小さな収容所を作らせて、労働者をそこに住まわせた。工場の労働者は「軍需に不可欠」だと言い張って、移送や処刑から守った。そのために何度もゲシュタポに逮捕されたが、そのたびに人脈で釈放されている。
1944年、ソ連軍が迫ると、プワシュフの囚人たちはホロコーストの最大の殺戮の場であるアウシュヴィッツなどへ送られることになった。シンドラーは、工場を故郷に近いモラヴィアのブリンリッツへ移す許可を取りつけ、連れて行く労働者の名簿を作らせた。名簿には1100人から1200人ほどの名が並んだ。移送の途中、女性たちを乗せた列車がアウシュヴィッツに着いてしまったが、シンドラーは賄賂と交渉で彼女たちを取り戻した。収容所から生きて女性たちが出てきたのは、きわめて珍しいことだった。

ブリンリッツの工場は、砲弾を作るはずだったが、使えるものはほとんど作らなかった。シンドラーは、よそから砲弾を買ってきて生産したように見せかけたとされる。妻のエミーリエも、労働者の食料や薬を集めるのに奔走した。1945年5月、戦争が終わったとき、工場の労働者たちは生き延びていた。財産はほとんど使い果たしていた。ナチ党員だったシンドラーは、ソ連軍を避けて西へ逃げた。労働者たちは、彼が裁かれたときのために、彼に救われたことを書いた書面を手渡したという。
戦後は振るわなかった。アルゼンチンに渡って農場を営んだが失敗し、妻と別れてドイツへ戻り、セメント工場を始めたが倒産した。救われた人々が、彼に送金を続けて暮らしを支えた。1963年、イスラエルのホロコーストの記念機関ヤド・ヴァシェムは、彼を「諸国民の中の正義の人」と認定した。

1974年10月9日、ドイツのヒルデスハイムで死去した。66歳。遺言により、エルサレムのシオンの丘のカトリックの墓地に葬られた。いまもユダヤ教の習わしに従って、訪れる人が墓に小石を置いていく。1982年、オーストラリアの作家トマス・キニーリーが彼の物語を小説にし、1993年、スティーヴン・スピルバーグが『シンドラーのリスト』として映画にした。
なぜ彼が人を救ったのかは、本人もはっきり語らなかった。酒好きで女好きの、利にさとい事業家だったことは、救われた人々も認めている。完璧な人間ではなかった人物が、ある時点から、自分の持てるものをすべて使って人の命を守った。救われた人々の子や孫は、いまでは数千人を数える。