サルゴン2世
概要
兄を継いだか、簒奪したか。サマリアを落として2万7290人を移住させ、ウラルトゥを破り、バビロンを取り、自分の都ドゥル・シャルキンを10年で建てた。戦場で死に、遺体が見つからなかった。息子はその都を捨てた。
所属
新アッシリア帝国関わったできごと(1)
イスラエル王国の滅亡BC722年 · アッシリア王本文
サルゴン2世は、紀元前722年から紀元前705年まで新アッシリア帝国を治めた王である。アッカド語の名はシャッル・キーン、「正統な王」を意味する。わざわざ正統を名乗ったのは、正統でなかったからではないか、と多くの研究者は考えている。前王シャルマネセル5世との関係ははっきりしない。サルゴンは自分の碑文で父の名をほとんど書かず、兄から王位を受け継いだのか、宮廷の争いの中で奪ったのかは分からない。即位の直後、王は古都アッシュルの市民に税と労役の免除を与え直しており、そうして支持を買わなければならない事情があったことがうかがえる。

即位の年、アッシリア軍はイスラエル王国の都サマリアを囲んでいた。サマリアが落ちたのは紀元前722年で、聖書の列王記はこれをシャルマネセルの仕事として書く。ところがサルゴンは、のちの碑文で自分がサマリアを取ったと記した。「私は2万7290人を連れ去り、50台の戦車を私の軍に加え、ほかの土地の民をそこに住まわせた」。数は碑文によって少し違う。サマリアは紀元前720年にも反乱に加わっており、サルゴンの言う征服はこのときの鎮圧を指すとも考えられている。こうしてイスラエル王国の滅亡は完成した。
連れ去られた人々は、列王記によればハラ、ゴザンの川ハボルのほとり、メディアの町々に移された。征服地の民を遠くへ移し、別の民を入れるのは、ティグラト・ピレセル3世から続くアッシリアの統治の手法だった(アッシリアの強制移住)。移された北の十部族のその後は記録に残らず、のちに「失われた十部族」の伝説を生む。アフガニスタン、インド、エチオピア、果ては日本にまで子孫を探す話が作られたが、いずれも根拠のある説ではない。サマリアに入れられた人々と残った人々は混じり合い、のちのサマリア人の起こりになったとされる。

サルゴンの治世はほぼ毎年が戦いだった。紀元前720年には、シリアのハマトの王が周りの都市を誘って起こした反乱をカルカルで破り、南へ下ってラフィアでガザとエジプトの軍を退けた。紀元前717年には、ヒッタイトの伝統を引く北シリアの大都市カルケミシュを併合した。東ではザグロスの山地の諸国を従え、西のアナトリアではフリュギアの王ミタ(ギリシア人の言うミダス)と張り合った。
最も名高いのは紀元前714年の第8回の遠征である。北の山国ウラルトゥ(ウラルトゥの興り)は、アッシリアと覇を争う強国だった。サルゴンは険しい山を越えてウラルトゥの王ルサ1世の軍を破り、帰り道に聖地ムサシルを襲ってハルディ神の神殿を略奪した。この遠征は、神アッシュルへの手紙の形をとった長い報告に書かれ、その粘土板がいまルーヴル美術館にある。山の高さ、兵の苦労、奪った金銀の目録まで、細かく書かれた文書である。サルゴンの別の碑文は、ムサシルが落ちたと聞いたルサが自分の剣で命を絶ったと伝える。

南では、バビロンをカルデア人の首長マルドゥク・アプラ・イディナ2世(聖書のメロダク・バルアダン)が治めていた。紀元前710年、サルゴンは南へ兵を向け、相手が逃げたのちバビロンに入り、自らバビロンの王として新年の祭りを執り行った。これでアッシリアの王は、ペルシア湾から地中海、アナトリアの東までを支配することになった。聖書のイザヤ書20章には、アッシリア王サルゴンが遣わした将軍がペリシテの町アシュドドを攻めた年のことが書かれている。サルゴンの名が聖書に出るのは、この一か所だけである(イザヤ)。
戦いの合間に、サルゴンは新しい都を築いた。ニネヴェの北東、いまのイラクのコルサバードに、紀元前717年頃から工事を始めたドゥル・シャルキン、「サルゴンの砦」である。一辺が1.5キロ余りの城壁に七つの門を開き、門には人の顔と翼を持つ牡牛の巨像ラマッスを据えた。宮殿は高い基壇の上に建ち、壁には王の戦いと貢ぎ物を運ぶ人々の浮き彫りが並んだ。都は紀元前706年頃に完成したとされる。1843年、フランスの領事ポール・エミール・ボッタがここを掘り、これがアッシリアの遺跡の最初の本格的な発掘になった。ラマッスの一対はいまルーヴル美術館に立っている。

完成の翌年、紀元前705年、サルゴンはアナトリアのタバルへ遠征し、そこで戦死した。相手はグルディという名の首長とされ、キンメリア人との戦いだったとする説もある。アッシリアの王が戦場で倒れたのは異例で、しかも遺体は取り戻されず、王の墓に葬られることがなかった。メソポタミアでは、葬られない死者の霊はさまよい続けると考えられていた。
息子のセンナケリブは、父の死を神々の怒りと受け止めたらしい。のちの時代の文書には、王が占いで「父の罪」を神々に尋ねる場面がある。センナケリブは完成したばかりのドゥル・シャルキンを捨ててニネヴェに都を移し、自分の碑文では父の名をほとんど出さなかった。新しい都は役所の町として細々と使われただけで、やがて忘れられた。

サルゴンという名は、千数百年前にメソポタミアを初めて一つにまとめたアッカドのサルゴンの名を意識したものと考えられている。19世紀にボッタが掘り出すまで、この王の名はイザヤ書の一節にしか残っておらず、聖書の誤りではないかと疑う学者もいた。コルサバードの壁から現れた碑文は、その王が実在し、しかも帝国の絶頂を築いた一人だったことを示した。サルゴンの家系はその後およそ百年、アッシリアの王位を継ぎ、帝国はニネヴェ陥落まで続いた。