緑のサハラ
概要
いまの砂漠に、湖と草原があった。岩絵に、泳ぐ人と、牛の群れと、カバが描かれている。乾燥が進んだとき、人はナイル川へ移った。エジプト文明はその先にある。
場所
25.45°N 9.00°E · アルジェリア
本文
いまのサハラは、日本の国土の20倍を超える広さの、世界最大の暑い砂漠である。そこに、かつて湖と草原があった。およそ1万1000年前から5500年前まで、サハラの大部分は、いまの東アフリカのサバンナのような緑の土地だった。研究者はこの時期を「アフリカ湿潤期」と呼ぶ。
原因は、地球の動きにある。地球の自転の軸は、コマの首振りのように、およそ2万年の周期でゆっくりと向きを変えている。そのため、北半球の夏に太陽に最も近づく時期と、遠ざかる時期が交互に来る。最後の氷期が終わったあとのこの時期、北半球の夏の日差しはいまより強かった。陸が温められると、大西洋から湿った風を引き込む西アフリカのモンスーンが、いまよりはるか北まで張り出した。雨が増えると草が育ち、草が地面を覆うと、照り返しが減って空気が温まり、さらに雨を呼ぶ。植物と雨とが互いを強め合った。

いまのチャド湖は、季節によって大きさの変わる浅い湖で、近年はさらに縮んでいる。湿潤期には、この湖が周囲の低地を満たし、いまのカスピ海に匹敵する広さの巨大な湖になっていたと考えられている。湖の跡は、衛星写真で見ると古い岸辺の線として残っている。サハラの各地に大小の湖や沼が点在し、そのあいだを川が流れていた。
人々はその水辺で暮らした。湖の跡からは、骨で作った銛や、魚、ワニ、カバの骨が出てくる。ニジェールの砂漠のただ中にあるガベロという遺跡では、湖のほとりに営まれた墓地が見つかり、数千年にわたって人が葬られていた。サハラとその南の地域では、およそ1万年前にはもう土器が作られており、これは世界でも早い例である。人々は狩りをし、魚をとり、野生の穀物を集めて煮炊きしていた。

やがて牛を飼う人々が現れる。エジプト南部のナブタ・プラヤなどでは、遅くとも7000年前ごろには牛が飼われていたとされる。牛がアフリカで独自に家畜にされたのか、西アジアから持ち込まれたのかは、議論が続いている。
その暮らしを、人々は岩に描き残した。アルジェリア南東部のタッシリ・ナジェールの岩山には、何千もの岩絵がある。キリンやゾウ、カバの姿があり、時代が下ると、角の大きな牛の群れと、それを追う人々が描かれる。エジプト南西部の砂漠にあるギルフ・ケビールの岩陰には、手足を広げて泳いでいるように見える人の姿が描かれ、「泳ぐ人の洞窟」と呼ばれている。いまは一滴の水もない場所である。

およそ6000年前から5000年前にかけて、雨は減っていった。北半球の夏の日差しが弱まり、モンスーンが南へ退いた。この変化が数百年のうちに急に起きたのか、地域ごとに時間をかけて進んだのかは、研究者の間で意見が分かれている。湖の堆積物から急な変化を読み取る研究もあれば、場所によって数千年の幅があったとする研究もある。人が牛を放牧して草を食べ尽くしたことが乾燥を早めた、という説もあるが、確かめられてはいない。
乾いていく土地から、人は移っていった。南のサバンナへ移った人々もいれば、オアシスに残った人々もいる。そして東では、多くの人々がナイル川の流域に集まった。ナイルは、雨の降らない砂漠の中でも、はるか南の高地から水を運んでくる。

ナイル河谷にはもっと前から人が住んでいたが、この時期に定住の村が増え、農耕と牧畜が広がった。限られた川沿いの土地に人が集まると、洪水を管理し、収穫を蓄え、分け合う仕組みが要る。やがて上エジプトと下エジプトにそれぞれ王が現れ、紀元前3100年ごろには一つの王のもとに統一される(上下エジプトの統一)。その最初の王の一人とされるのがナルメルである。エジプトの初期の王の権威を示すしるしには、サハラの牧畜民の牛の信仰とのつながりを指摘する研究もある。
サハラの乾燥がエジプト文明を生んだと言い切ることはできない。だが、気候の変化が人を川辺へ押し出し、そこで文明が立ち上がったことは、時期の重なりから見て偶然ではないと考えられている。のちにサハラを越える交易を支えたのは、ずっと後の時代に持ち込まれたラクダだった(サハラへのラクダの導入)。いまもサハラの砂は風で大西洋を渡り、アマゾンの森に養分を運んでいる。かつて湖の底に沈んだ微生物の殻が、その塵の一部になっている。