アルスーフの戦い
概要
第三回十字軍で、リチャード1世の軍が海沿いを南下する途中、サラディンの総攻撃を受け止めて押し返した戦い。
場所
32.20°N 34.81°E · イスラエル・中央地区(ヘルツリーヤの北)
関わった人(2)
リチャード1世(獅子心王)AD1157年9月8日–AD1199年4月6日 · 十字軍の総指揮サラディンAD1137年頃–AD1193年 · アイユーブ朝軍の総指揮本文
1187年、ヒッティーンの戦いでエルサレム王国の野戦軍はほぼ消え、同じ年のうちにサラディンはエルサレムを取り戻した(サラディンのエルサレム奪還)。この知らせに応えて西欧で起こされたのが第三回十字軍である。神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ)は小アジアで川を渡る途中に溺れ死に、フランス王フィリップ2世は1191年7月の第三回十字軍のアッコン攻囲が終わるとまもなく帰国した。残った軍勢をまとめたのは、イングランド王リチャード1世(獅子心王)だった。
リチャードが次に狙ったのは、アッコンから南へ約100キロの港町ヤッファである。エルサレムを攻めるにも守り続けるにも、海から兵と食糧を受け取れる港が要る。8月下旬、十字軍は海岸に沿って南へ歩き出した。艦隊が沖を並んで進み、補給と負傷者の収容を受け持った。右手はいつも海なので、敵が回り込めるのは左の陸側だけになる。

リチャードはヒッティーンの敗北をよく学んでいた。あの戦いでは、水を断たれた軍が暑さの中で崩れた。そこで行軍は朝の涼しいうちだけにとどめ、水場のそばでこまめに休んだ。騎士の部隊を列の中心に置き、その陸側を歩兵で囲み、いちばん外側にクロスボウ兵を並べた。疲れた歩兵は海側の荷駄の列と入れ替えて休ませた。
サラディンの軍は騎兵が中心で、足の遅い十字軍に追いつくのはたやすかった。弓騎兵が近づいては矢を浴びせて退き、隊列を乱して騎士を誘い出そうとした。サラディンに仕えて従軍したバハー・アッディーン・イブン・シャッダードは、十字軍の歩兵が背中に矢を1本から10本も刺したまま、平然と歩き続けていたと書いている。分厚い綿入れの下着と鎖帷子が矢を止めていたとみられる。

小競り合いでは足が止まらないと見たサラディンは、全軍で決戦を挑むことにした。場所に選んだのは、アルスーフの町の北に広がる森と、森と海のあいだの細長い平地である。森に兵を隠しておけば、不意を突いて列の後ろを切り離せる。9月7日の朝、十字軍が野営地を出ると、四方に敵の斥候の姿が見えた。リチャードは列の先頭にテンプル騎士団を、最後尾にホスピタル騎士団を置いた。どちらも東方での戦いにいちばん慣れた部隊だった。
攻撃は十字軍が全員野営地を出たところで始まった。太鼓とシンバルが鳴り響き、徒歩の弓兵と投げ槍の兵が前に出て、その後ろから弓騎兵が駆け寄った。やがて攻撃は最後尾に集中し、ホスピタル騎士団の歩兵は、盾を敵に向けたまま後ろ向きに歩いて射ち返すほどになった。総長ガルニエ・ド・ナブルスは何度も突撃の許しを求めたが、リチャードは待てと答えた。敵の馬が疲れ、全軍が近くまで寄ってくるまで、騎士の突撃を取っておくつもりだった。合図はラッパ6回と決められていたとされる。
午後、先頭がアルスーフに入ったころ、我慢が切れた。ホスピタル騎士団の軍務長と、王の家臣ボードゥアン・ル・カロンが歩兵の列を抜けて敵に突っ込み、騎士団の騎士たちがそれに続いた。長く命令違反とされてきたが、リチャード自身の手紙などと合わず、王が信頼する部下に機を見て突撃する裁量を与えていたとみる説もある。いずれにせよリチャードは、ここで後に続かなければ突出した部隊が囲まれると見て、全軍に突撃を命じた。
十字軍のすぐそばまで迫っていたサラディンの右翼は、突撃をまともに受けて崩れた。リチャードは追いすぎを戒め、1.5キロほどで騎士を止めて立て直した。サラディンの甥タキー・アッディーンが親衛の兵を率いて反撃すると、二度目の突撃でこれを破り、三度目の突撃でアイユーブ朝の軍は森と丘へ散っていった。追いすぎて討たれた者もおり、フランドル勢を率いたジャック・ダヴェーヌが戦死した。
損害ははっきりしない。キリスト教側の年代記はサラディン側の死者を7000人、十字軍の死者を700人以下とするが、前者は多めに見積もられている可能性がある。サラディンの軍は壊滅こそしなかったものの総崩れになり、これはイスラム側で大きな恥とされた。サラディンはこの後、正面からの決戦を二度と挑まず、守り切れないと見たアスカロンなど南の城を自ら取り壊した。十字軍はヤッファを手に入れ、城壁を築き直した。
それでもエルサレムは落ちなかった。十字軍は二度エルサレムの近くまで迫ったが、内陸で補給線を保ち、落とした後も守り続ける見込みが立たず、引き返した。1192年9月、リチャードとサラディンは休戦を結び(ヤッファ条約)、海岸の町々は十字軍の手に残り、キリスト教徒の巡礼はエルサレムに入れることになった。帰国を急いだリチャードは、その途中でオーストリア公に捕らえられる。
アルスーフの戦いは、サラディンの無敵の評判に傷をつけ、リチャードの名を高めた。ただ勝利を決めたのは王の剣より、矢を浴びながら何日も隊列を崩さなかった歩兵と、海から支えた艦隊だった。戦場とされる平地では2013年と2014年に考古学の調査が行われ、当時の武具の破片とみられる鉄片が見つかっている。