センナケリブ
概要
ニネヴェを都にして水道を引き、エルサレムを包囲して退き、バビロンを壊した。息子に殺された。旧約聖書とアッシリアの碑文の両方に出てくる。
所属
新アッシリア帝国関わったできごと(2)
センナケリブのエルサレム包囲BC701年 · 包囲センナケリブのバビロン破壊BC689年 · 命令本文
センナケリブは、アッカド語でシン・アヘ・エリバといい、「月の神シンが兄弟たちの代わりを与えた」という意味になる。兄たちを早くに亡くした子だったのかもしれない。生年は分からない。父は新アッシリア帝国の王サルゴン2世で、センナケリブは皇太子として、父が遠征に出ているあいだ、都で国の政務や北の国境からの報告を取り仕切った。その時代の書簡が粘土板で残っている。

紀元前705年、父サルゴン2世はアナトリアでの戦いのさなかに戦死し、その遺体は敵の手に渡って取り戻せなかった。アッシリアでは、葬られない死者の霊はさまようと考えられていた。王の無惨な死は、神々の怒りのしるしと受け取られた。王位を継いだセンナケリブは、父が新しく築いたばかりの都ドゥル・シャルキンを捨て、ティグリス川のほとりの古い町ニネヴェに都を移した。
センナケリブはニネヴェを、帝国の都にふさわしい大都市に造り変えた。町を囲む城壁は延長12キロに及び、15の門が開いた。新しい宮殿は「並ぶもののない宮殿」と名づけられ、壁は王の戦いを刻んだ石の浮き彫りで埋め尽くされた。町と畑に水を送るため、北の山地から何十キロにもわたる運河を掘らせ、谷を越えるところには、石を積み上げた水道橋を架けた。ジェルワンに残るその遺構は、ローマの水道より何百年も早い。王はまた、宮殿のそばに、山の景色をまねた庭園を造ったと碑文に誇っている。古代の七不思議に数えられる「バビロンの空中庭園」は、実はこのニネヴェの庭園だったのではないか、という説を唱える研究者もいる。

即位のあと、帝国の各地で反乱が起きた。地中海の東岸では、エジプトの後押しを受けて、フェニキアの町々やユダの王ヒゼキヤがアッシリアへの貢ぎ物をやめた。紀元前701年、センナケリブは大軍で西へ向かった(センナケリブのエルサレム包囲)。王の年代記を刻んだ角柱によれば、ユダの城壁で囲まれた町46を攻め落とし、20万人を超える人々を連れ去った。ユダ第二の町ラキシュの攻囲は、ニネヴェの宮殿の浮き彫りに克明に描かれている。城壁に攻城の塔を寄せる兵、串刺しにされる捕虜、家財を背負って連れ出される家族。
そしてエルサレムである。センナケリブはヒゼキヤを「籠の鳥のように」その都に閉じ込めた、と碑文に書く。だが、落としたとは書いていない。ヒゼキヤは金30タラントと銀800タラントの重い貢ぎ物を差し出し、王国は残った。旧約聖書の『列王記』は、別の結末を語る。主の使いが一夜のうちにアッシリアの陣営で18万5千人を打ち、センナケリブは引き揚げた、と。ギリシアの歴史家ヘロドトスは、エジプトに向かったアッシリア軍の陣営に野ネズミの大群が押し寄せ、弓の弦をかじったと伝える。疫病だったのかもしれない、という解釈もあるが、確かなことは分からない。二つの側の記録が残る、古代史でも珍しい出来事である。

センナケリブを最も手こずらせたのは、南のバビロンだった。古い文化と信仰の中心であるバビロンは、アッシリアにとって敬うべき町であると同時に、何度も背く町だった。カルデア人の首長メロダク・バルアダンは、東のエラムと結んで繰り返しバビロンの王位を奪った。センナケリブはバビロンに傀儡の王を置き、さらに自分の長男を王にしたが、紀元前694年、バビロンの人々は長男をエラムに引き渡し、長男はそのまま消息を絶った。おそらく殺されたと考えられている。
怒ったセンナケリブは、紀元前689年、長い包囲の末にバビロンを落とした(センナケリブのバビロン破壊)。家々を壊し、神殿を焼き、神々の像を砕いて持ち去った。さらに運河を切って町に水を流し込み、町を水の下に沈めたと碑文に書いている。メソポタミアの人々にとって、それは神々に対する冒涜に等しい行いだった。

紀元前681年、センナケリブはニネヴェで、息子たちの手で殺された。年上の息子たちをさしおいて、年下のエサルハドンを後継ぎに定めたことが原因と考えられている。『列王記』は、王が自分の神の神殿で拝んでいたところを、二人の息子が剣で殺したと書く。内乱を制して王位についたエサルハドンは、父が壊したバビロンを建て直し、のちにエジプトを征服した(アッシリアのエジプト征服)。センナケリブの孫が、ニネヴェに大図書館を築いたアッシュルバニパルである。だがセンナケリブが壮麗に飾った都ニネヴェは、その死から70年足らずの紀元前612年、バビロニアとメディアの連合軍に攻め落とされた(ニネヴェ陥落)。