アルフレッド大王のウェセックス
概要
ヴァイキングの侵入を食い止め、法を整え、学問を英語に訳させた。イングランドという単位がここから見えてくる。
場所
51.06°N -1.31°E · イギリス・イングランド
関わった人(1)
アルフレッド大王AD849年頃–AD899年10月26日 · 当人本文
9世紀の半ばのイングランドは、一つの国ではなかった。北のノーサンブリア、中部のマーシア、東のイースト・アングリア、南のウェセックスなど、アングロ・サクソン人の王国が並んでいた。8世紀の末から、北の海を渡ってきたヴァイキングが修道院や港を襲うようになり(ヴァイキングの襲来)、865年には「大軍勢」と呼ばれる大きな軍が上陸した。今度は略奪して帰るのではなく、居座って土地を奪うための軍だった。
ノーサンブリアが867年に、イースト・アングリアが869年に倒れ、マーシアも870年代に屈した。残ったのが、テムズ川の南のウェセックス一つになる。

アルフレッド大王は、ウェセックスの王エゼルウルフの末の息子として849年に生まれた。王位を継ぐとは思われていなかった。兄たちが次々に王となって早く死に、871年、ヴァイキングとの戦いが続く最中に、最後の兄が亡くなって、21歳ほどで王位に就いた。
878年の正月、ヴァイキングの王グズルムの軍が、冬のあいだは戦わないという常識を破って、ウェセックスの王宮があったチッペナムを急襲した。アルフレッドはわずかな供とともに逃れ、南西のサマセットの沼地にあるアセルニーに隠れた。農家に匿われて、焼いていたパンを見ているよう頼まれたのに焦がしてしまい、王と知らないおかみさんに叱られた、という逸話はよく知られているが、これは100年以上あとに作られた話になる。

沼地で兵を集め直したアルフレッドは、その年の5月、エディントンでグズルムの軍を破った(エディントンの戦い)。グズルムは降伏し、洗礼を受け、アルフレッドがその名付け親になった。
アルフレッドは、ヴァイキングを島から追い出すことはしなかった。その力は無かった。代わりに、境界を定めて共存した。のちにグズルムと結んだ取り決めで、ロンドンの北東からイングランドの東半分にかけてがデーン人の住む地域とされた。デーン人の法が行われる地域という意味で、デーンローと呼ばれる(ダーンローの成立)。886年、アルフレッドはロンドンを押さえ、デーン人の支配の外にいるアングロ・サクソン人たちから、自分たち共通の王として認められた。

アルフレッドの仕事で大きいのは、その後になる。
まず、守りの仕組みを作り直した。王国じゅうに、城壁や土塁で囲んだ砦の町(バラ)を30ほど築き、どの村からも一日で歩いて逃げ込める距離に置いた。砦の維持と守備は、周りの土地の広さに応じて割り当てられた。軍は二つに分け、半分が家で畑を耕すあいだ、もう半分が戦に備える。収穫期に兵が帰ってしまう弱点をなくすためだった。ヴァイキングの船に対抗して、大型の船も造らせている。892年に再び大軍が来たとき、ウェセックスは持ちこたえた。
次に、法を集めて整理した。昔のウェセックスやケントやマーシアの王たちの法から、良いと思うものを選び、聖書の教えを冒頭に置いて、一つの法典にまとめた。
そして、学問を英語に訳させた。アルフレッドは、自分が王になった頃、ハンバー川の南にラテン語の祈りの意味を分かる聖職者はほとんどいなかった、と嘆いている。ヴァイキングの襲撃で修道院が焼かれ、書物と学者が失われていた。だから、まずすべての人が知るべき本を、皆が分かる英語で読めるようにする。自由な身分の若者には英語の読み書きを学ばせ、さらに学ぶ者にはラテン語を教える。王自身も40歳近くになってからラテン語を学び、教皇グレゴリウスの『司牧規則』や、ボエティウスの『哲学の慰め』を自ら英語に訳したとされる。ベーダ『イングランド教会史』なども英語に訳され、王国の歴史を年ごとに記した『アングロ・サクソン年代記』も、この頃に書き始められた。

伝記を書いたウェールズの修道士アッサーは、アルフレッドが若い頃から重い病に苦しんでいたことを記している。それでも王は、一日の時間を祈りと政務に分けるため、目盛りを刻んだ蝋燭を作らせ、風で炎が乱れないよう角の板で囲ったという。
アルフレッドは899年に亡くなり、ウィンチェスターに葬られた。その子と孫は、デーンローの土地を少しずつ取り戻し、孫のアゼルスタンの時代に、イングランドのほぼ全体が一人の王のもとにまとまる。アルフレッドは、のちに「大王」と呼ばれるようになる。イングランドという単位は、ここで見えてくる。