吉原の公認
概要
江戸に人が集まり、単身の男が町にあふれた。散らばっていた遊女屋を一か所に集めて囲い、そこだけを認める。幕府は、日本橋の近くの湿地に区画を許し、周りを堀と塀で囲わせた。吉原である。出入口は一つ、夜は閉める。客の身元も、遊女の逃亡も、そこで管理できる。遊女は借金を背負わされて外へ出られず、多くは貧しい村から売られてきた娘だった。禁じるのではなく、囲って公認し、税と治安の道具にする。この形は、明暦の大火の年に浅草の奥へ移されて、明治まで二百五十年続いた。
場所
35.68°N 139.77°E · 日本・東京都
本文
徳川家康が江戸に入ってから、町は休みなく造り変えられていた。城の普請、堀の掘削、埋め立て、大名屋敷の建設。その工事のために、全国から職人や人足が集まった。やがて参勤交代が始まると、大名の家臣たちが国元に家族を残して江戸に住むようになる。17世紀の江戸は、男が女よりはるかに多い町だった。
そうした男たちを相手に、遊女屋が町のあちこちにできた。幕府にとって、それが散らばっていることは都合が悪かった。目が届かないからである。遊女屋には浪人や罪人、訳ありの者が紛れ込みやすい。関ヶ原の戦いや大坂の陣のあと、主を失った浪人は大勢いて、幕府は彼らが騒ぎを起こすことを警戒していた。

一方、遊女屋の側にも、望みがあった。商売を公に認めてもらい、他の業者を締め出したい。1612年ごろ、遊女屋の主の一人、庄司甚右衛門らが、遊女屋を一か所に集めて営ませてほしいと幕府に願い出た。その代わり、怪しい者がいれば届け出て、取り締まりに協力するという。
1617年(元和3年)、許可が下りた。日本橋の近く、いまの人形町のあたりの湿地が与えられ、遊女屋たちはそこを埋め立てて町を作った。葦(よし)の生い茂る原だったので「葭原」、のちに縁起のよい字をあてて「吉原」と呼ばれるようになったと言われる。営業が始まったのは翌年である。周りは堀と塀で囲まれ、出入口は一つに限られた。

許可には条件が付いていた。吉原の外では遊女屋を営まないこと。客を一日一夜より長く泊めないこと。身元の怪しい者が来たら届け出ること。建物を華美にしないこと。禁じるのではなく、囲って公認する。囲いの中だけが合法になり、囲いの外は取り締まりの対象になる。客の出入りも、遊女の逃亡も、一つの門で見張ることができた。
吉原で働く遊女たちは、どこから来たのか。多くは、貧しい農村や町の家から、年季奉公として売られてきた娘たちだった。親には前借りの金が渡され、娘はそれを働いて返す。年季はおおむね10年ほどで、それが明ければ自由になるはずだった。だが、衣装や化粧の品、食事、布団の代金までが本人の借金に積み上げられ、借金はなかなか減らなかった。病にかかって、年季が明ける前に死ぬ者も多かった。門には番人がいて、逃げれば連れ戻され、罰を受けた。

同時に、吉原は江戸の文化の中心の一つでもあった。最高位の遊女である太夫は、和歌や書、茶の湯、香、琴や三味線を身につけ、教養ある大名や豪商の相手をした。遊女たちの装いは流行を生み、浮世絵の題材になり、芝居や小説の舞台になった。華やかさの裏に、逃げられない仕組みがある。その両方が、同時に本当だった。
1656年(明暦2年)、町が広がって吉原が江戸の中心に近くなりすぎたため、幕府は郊外への移転を命じた。その準備の最中の翌1657年、明暦の大火が江戸の大半を焼き、吉原も焼けた。吉原は浅草の北、日本堤のあたりへ移された。もとの場所を元吉原、新しい場所を新吉原と呼ぶ。移転の代わりに、敷地は広げられ、夜の営業も認められた。
新吉原は、それから幕末まで、江戸で唯一の公認の遊廓であり続けた。もっとも、実際には品川や新宿など街道の宿場の飯盛女や、町の中の岡場所と呼ばれる非公認の遊所も栄え、幕府はときどき取り締まっては、そこで捕らえた女性を吉原へ送り込んだ。囲いの外を取り締まることが、囲いの中を支える仕組みになっていた。
明治に入ると、1872年の娼妓解放令で、遊女の年季奉公は禁じられた。だが、遊女屋は「貸座敷」と名を変え、遊女は自分の意思で営業する娼妓とされて、仕組みはほとんど残った。吉原の区画は明治、大正、昭和を通じて続き、1958年に売春防止法が完全に施行されるまで、遊廓の町であり続けた。

公娼という仕組みは、日本だけのものではない。19世紀のヨーロッパでも、多くの国が売春を登録制にし、警察が女性を管理した。公認すれば病と治安を管理できる、という理屈は、どこでも似ている。そして、その管理の対象になるのは、いつも売る側の女性だった。売る側ではなく買う側を罰する制度が現れるのは、20世紀の終わり、1999年のスウェーデンからである。