できごと

吉原の公認

Yoshiwara
AD1617年(元和3年)
重要度 3
ロシア帝国中央アジアの諸ハン国スペイン帝国明チベットチュクチアユタヤ朝Koryaks日本シャン諸邦大越朝鮮王朝Itelmen大越ビルマの諸王国カンボジアラオスLan NaアイヌモシリPeguAD1617年(元和3年)東京
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1617年(元和3年)の版図を描いています(20勢力)。

概要

江戸に人が集まり、単身の男が町にあふれた。散らばっていた遊女屋を一か所に集めて囲い、そこだけを認める。幕府は、日本橋の近くの湿地に区画を許し、周りを堀と塀で囲わせた。吉原である。出入口は一つ、夜は閉める。客の身元も、遊女の逃亡も、そこで管理できる。遊女は借金を背負わされて外へ出られず、多くは貧しい村から売られてきた娘だった。禁じるのではなく、囲って公認し、税と治安の道具にする。この形は、明暦の大火の年に浅草の奥へ移されて、明治まで二百五十年続いた。

場所

東京
35.68°N 139.77°E · 日本・東京都

本文

徳川家康が江戸に入ってから、町は休みなく造り変えられていた。城の普請、堀の掘削、埋め立て、大名屋敷の建設。その工事のために、全国から職人や人足が集まった。やがて参勤交代が始まると、大名の家臣たちが国元に家族を残して江戸に住むようになる。17世紀の江戸は、男が女よりはるかに多い町だった。

そうした男たちを相手に、遊女屋が町のあちこちにできた。幕府にとって、それが散らばっていることは都合が悪かった。目が届かないからである。遊女屋には浪人や罪人、訳ありの者が紛れ込みやすい。関ヶ原の戦いや大坂の陣のあと、主を失った浪人は大勢いて、幕府は彼らが騒ぎを起こすことを警戒していた。

関ヶ原の戦いに関わる図版:Sekigaharascreen
関ヶ原の戦いWikimedia Commons User LordAmeth on en.wikipedia Collection of The Town of Sekigahara Archive of History and Cultural Anthropology · Public domain

一方、遊女屋の側にも、望みがあった。商売を公に認めてもらい、他の業者を締め出したい。1612年ごろ、遊女屋の主の一人、庄司甚右衛門らが、遊女屋を一か所に集めて営ませてほしいと幕府に願い出た。その代わり、怪しい者がいれば届け出て、取り締まりに協力するという。

1617年(元和3年)、許可が下りた。日本橋の近く、いまの人形町のあたりの湿地が与えられ、遊女屋たちはそこを埋め立てて町を作った。葦(よし)の生い茂る原だったので「葭原」、のちに縁起のよい字をあてて「吉原」と呼ばれるようになったと言われる。営業が始まったのは翌年である。周りは堀と塀で囲まれ、出入口は一つに限られた。

手彩色絵葉書東京吉原(明治大正時代)
手彩色絵葉書東京吉原(明治大正時代)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

許可には条件が付いていた。吉原の外では遊女屋を営まないこと。客を一日一夜より長く泊めないこと。身元の怪しい者が来たら届け出ること。建物を華美にしないこと。禁じるのではなく、囲って公認する。囲いの中だけが合法になり、囲いの外は取り締まりの対象になる。客の出入りも、遊女の逃亡も、一つの門で見張ることができた。

吉原で働く遊女たちは、どこから来たのか。多くは、貧しい農村や町の家から、年季奉公として売られてきた娘たちだった。親には前借りの金が渡され、娘はそれを働いて返す。年季はおおむね10年ほどで、それが明ければ自由になるはずだった。だが、衣装や化粧の品、食事、布団の代金までが本人の借金に積み上げられ、借金はなかなか減らなかった。病にかかって、年季が明ける前に死ぬ者も多かった。門には番人がいて、逃げれば連れ戻され、罰を受けた。

吉原の地図、二代目 歌川広重(1860年7月)
吉原の地図、二代目 歌川広重(1860年7月)Wikimedia Commons Utagawa Hiroshige II · Public domain

同時に、吉原は江戸の文化の中心の一つでもあった。最高位の遊女である太夫は、和歌や書、茶の湯、香、琴や三味線を身につけ、教養ある大名や豪商の相手をした。遊女たちの装いは流行を生み、浮世絵の題材になり、芝居や小説の舞台になった。華やかさの裏に、逃げられない仕組みがある。その両方が、同時に本当だった。

1656年(明暦2年)、町が広がって吉原が江戸の中心に近くなりすぎたため、幕府は郊外への移転を命じた。その準備の最中の翌1657年、明暦の大火が江戸の大半を焼き、吉原も焼けた。吉原は浅草の北、日本堤のあたりへ移された。もとの場所を元吉原、新しい場所を新吉原と呼ぶ。移転の代わりに、敷地は広げられ、夜の営業も認められた。

明暦の大火に関わる図版:Meireki fire
明暦の大火Wikimedia Commons 田代幸春 · Public domain

新吉原は、それから幕末まで、江戸で唯一の公認の遊廓であり続けた。もっとも、実際には品川や新宿など街道の宿場の飯盛女や、町の中の岡場所と呼ばれる非公認の遊所も栄え、幕府はときどき取り締まっては、そこで捕らえた女性を吉原へ送り込んだ。囲いの外を取り締まることが、囲いの中を支える仕組みになっていた。

明治に入ると、1872年の娼妓解放令で、遊女の年季奉公は禁じられた。だが、遊女屋は「貸座敷」と名を変え、遊女は自分の意思で営業する娼妓とされて、仕組みはほとんど残った。吉原の区画は明治、大正、昭和を通じて続き、1958年に売春防止法が完全に施行されるまで、遊廓の町であり続けた。

新吉原の桜。歌川広重(1835年3月頃)
新吉原の桜。歌川広重(1835年3月頃)Wikimedia Commons Utagawa Hiroshige · Public domain

公娼という仕組みは、日本だけのものではない。19世紀のヨーロッパでも、多くの国が売春を登録制にし、警察が女性を管理した。公認すれば病と治安を管理できる、という理屈は、どこでも似ている。そして、その管理の対象になるのは、いつも売る側の女性だった。売る側ではなく買う側を罰する制度が現れるのは、20世紀の終わり、1999年のスウェーデンからである。

動画(2)

べらぼう【吉原遊廓】その歴史と裏側をサクッと解説!鬼滅の刃見る前に予習しよう!蔦重栄華乃夢噺非株式会社いつかやる吉原遊廓の成り立ちと内部の仕組みをサクッと解説する
べらぼうでも話題の江戸の【遊女の実態とは?】その秘密をピンからキリまで紹介しまくる!蔦重栄華乃夢噺非株式会社いつかやる江戸の遊女の暮らしと格付けを吉原の成り立ちから描く

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