娼妓解放令
概要
1872年、横浜に入港した船から、清国人の苦力が助けを求めた。日本の裁判所は、彼らを奴隷として扱う契約は無効だと判断する。すると相手方は、日本にも年季で身体を売る遊女がいるではないかと反論した。政府は同じ年、娼妓と芸妓を解放する布告を出す。人身の売買は許されず、借金は無効だと定めた。牛馬に借りた物の返却を求められない、という言い方から「牛馬きりほどき令」とも呼ばれた。だが、遊女屋は貸座敷業と名を変え、遊女は自分の意思で営業する者とされた。形を変えて、仕組みは残った。
場所
35.68°N 139.77°E · 日本・東京都
本文
1872年(明治5年)の夏、ペルーの船マリア・ルス号が、嵐で傷んだ船体を直すために横浜港に入った。船には、マカオから南米ペルーへ運ばれる清国人の労働者、いわゆる苦力が230人ほど乗っていた。ある夜、そのうちの一人が海に飛び込んで逃げ、近くに停泊していたイギリスの軍艦に助けを求めた。船の中で、彼らが奴隷同然に扱われていることが明るみに出た。
イギリスの代理公使に促され、外務卿の副島種臣は、日本の手でこの件を裁くことを決めた。神奈川県の権令(次官にあたる地方長官)大江卓が裁判長となって法廷が開かれた。条約のもとで外国人を裁くことには異論もあったが、大江は、人を奴隷として運ぶ契約は人道に反し、無効だと判断し、清国人たちを船から下ろして解放した。彼らはやがて清国へ送り返された。
このとき、船長の側の弁護人を務めたイギリス人が、痛いところを突いた。日本にも、年季の約束で身を売られ、借金で縛られて働かされる遊女がいるではないか。人の身体を売り買いする契約が無効だと言うなら、日本の遊女の契約も無効になるはずだ、というのである。遊女の年季証文が、証拠として持ち出されたとも伝えられる。
明治の政府にとって、これは困った指摘だった。幕末に結んだ不平等な条約を改めるには、欧米の国々から「文明国」と認められなければならない。ちょうど岩倉使節団が欧米を回り、条約改正の可能性を探っていたころである。自国に奴隷のような身分の者がいると言われては、条約を改めるどころではない。条約の改正は、結局それから20年あまりかかり、領事裁判権の撤廃が決まるのは1894年である(条約改正(日英通商航海条約))。もともと政府の内部にも、遊女の身売りを改めるべきだという議論はあったが、この事件がそれを一気に押し出した。

1872年(明治5年)10月2日、太政官は布告を出した。年季奉公の名のもとに人の身体を売り買いすることを禁じ、娼妓と芸妓の年季奉公人をすべて解放する。それに関わる貸し借りの訴えは取り上げない、という内容である。続いて司法省が出した達は、娼妓や芸妓は人としての権利を失った者で牛馬と変わらない、人が牛馬に借りた物を返せと求める理屈は無い、という趣旨で、前借金の返済を求めることを認めなかった。ここから、この布告は「牛馬きりほどき令」と俗に呼ばれた。解放する側の言葉も、相手を人として扱ってはいなかった。
布告は、遊廓に混乱をもたらした。証文が無効になり、多くの遊女が親元へ帰された。だが、それは長く続かなかった。帰る家が無い者、帰っても暮らしが立たない者は多く、親が娘を売るほどの貧しさは何も変わっていなかったからである。
翌1873年、東京府は新しい規則を作った。遊女屋は「貸座敷」と名を変えた。部屋を貸すだけの商売で、客を取るのは娼妓が自分の意思で営む商売だ、という建前である。娼妓は役所に届け出て鑑札を受け、税を納め、決まった区域の中でだけ営業を許された。前借の金は、身売りの代金ではなく、ふつうの金銭の貸し借りという形で残された。法の上では自由、実際には借金で縛られる。吉原の公認以来の囲いは、そのまま残った。変わったのは、呼び方と、書類の形だった。
建前の上では、娼妓はいつでもやめられるはずだった。しかし、やめたいと申し出ても、貸座敷の主や警察が認めないことが多かった。1900年、娼妓が廃業を求めた裁判で大審院が廃業の自由を認めると、外国人の宣教師や救世軍が娼妓の自由廃業を助ける運動を起こし、同じ年に内務省が娼妓の取り締まりの規則を定めて、本人の申し出による廃業を明記した。それでも、借金を残したまま廃業できる者は少なかった。
公認の売春の制度そのものをなくそうとする運動も、明治の中ごろから続いた。キリスト教の団体や、女性たちの矯風会が中心になり、群馬県のように県として公娼を廃止したところもあった。だが国全体としては、公娼の制度は敗戦まで続いた。それがなくなるのは、占領下の1946年、連合国軍総司令部の指示による。その後も売春は「赤線」と呼ばれる区域で事実上黙認され、売春防止法が完全に施行されたのは1958年だった。
制度をやめるとき、看板だけが替わることがある。娼妓解放令は、その典型として語られる。そして、この布告のきっかけは、内からの声ではなく、外からの目だった。条約を改めたいという動機が、人の扱いを変えた。動機が不純でも、変わったことは変わった。マリア・ルス号をめぐるペルーとの争いは、ロシア皇帝の仲裁にゆだねられ、1875年、日本の措置は正当だったと認められている。