できごと

八甲田雪中行軍遭難事件

Hakkōda Mountains disaster
AD1902年1月23日 – AD1902年2月2日
期間を持つできごと重要度 3
大英帝国ロシア帝国清イギリス領インド帝国フランス領インドシナラタナコーシン朝(シャム)日本朝鮮王朝フィリピンAD1902年1月23日八甲田山(位置は特定されていない)
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1902年1月23日の版図を描いています(9勢力)。

概要

青森の歩兵第5連隊が八甲田山で雪中行軍の訓練中に猛吹雪で道を失い、210人のうち199人が死んだ。

場所

八甲田山位置は特定されていない(誤差 ±km)
40.66°N 140.88°E · 日本・青森県青森市

本文

日清戦争で冬の寒さに苦しんだ陸軍は、次に予想されるロシアとの戦いに備えて、雪の中での行軍と輸送を研究していた。青森に置かれた第8師団の歩兵第5連隊が確かめようとしたのは、冬にロシア艦隊が陸奥湾に入り込み、海沿いの鉄道が艦砲射撃で止まったとき、八甲田山の麓を越える田代街道を使って、八戸方面と青森のあいだで物資を人力のそりで運べるか、という問題だった。

計画は大隊長の山口鋠少佐が大綱を決め、第5中隊長の神成文吉大尉が細部を詰めた。まず最大の難所である青森から田代新湯(温泉)までの片道約20キロを、1泊2日で往復する。参加者は210人。食糧、薪と木炭、大釜などおよそ1.2トンを14台のそりに積み、人が曳く。1月18日に途中の小峠までの予行行軍をしたときは天候に恵まれ、支障はなかった。

1902年1月23日午前6時55分、隊は屯営を出た。途中の田茂木野村では村人が中止を勧め、どうしても行くなら案内すると申し出たが、隊は断り、地図と方位磁針だけで進んだ。昼前に小峠に着いたころから天候が急変し、携えた飯は凍った。将校のあいだで引き返す案も出たものの、下士らの反対もあって進み続けた。積雪は胸まで達し、そりは使えなくなって荷は人が背負った。夜、田代まであと1.5キロほどの平沢で雪壕を掘って露営したが、覆いも敷き藁もなく、座ることもできなかった。

24日未明、帰営を決めて出発したが道を失い、鳴沢付近の谷をさまよった。この夜までに全体の4分の1が倒れた。シベリアからの強い寒気が日本列島を覆っており、山中は零下20度を下回ったと推定されている。25日には旭川で零下41.0度という日本の観測史上の最低気温が記録された。点呼のときには約3分の1がすでに死んでいたとみられ、隊はばらばらになった。神成大尉は、天は我らを見捨てたらしい、という意味の言葉を口にしたと生還者が証言している。

連隊本部は当初、隊が田代でもう一泊していると考えていた。26日に出た救援隊は深い雪で引き返し、27日、三神定之助少尉の救援隊が雪の中に立ちつくす後藤房之助伍長を見つけた。後藤は神成大尉の命で田茂木野へ向かう途中で、近くで神成大尉の遺体が見つかった。31日には駒込川の谷底で山口少佐ら9人が、2月2日には炭小屋などで最後の生存者が救い出された。救出された17人のうち6人は病院で死に、生きて帰れたのは11人。参加者210人のうち199人が死んだ。生還者の多くは凍傷で手足を失った。山口少佐も2月2日に死んだ。公式の発表は心臓麻痺で、拳銃による自決とする説もあるが、凍傷の手で銃は扱えなかったはずだとする反論がある。遺体の捜索は5月まで続いた。

同じころ、弘前の歩兵第31連隊も八甲田山で雪中行軍をしていた。福島泰蔵大尉が率いる志願者37人と新聞記者1人が、十和田湖を回って八甲田を越え、青森を経て弘前へ戻る約224キロの道のりである。沿道の村にあらかじめ宿と案内人を頼み、木こりやマタギから聞いた防寒の工夫を取り入れた。途中で1人が離脱したものの死者は出さず、1月31日に弘前へ帰り着いた。二つの連隊は、互いの計画を知らずに出発していた。

遭難の原因には、中隊長は神成大尉なのに大隊長の山口少佐が同行して指揮の筋が二重になったこと、防寒の装備と冬山の知識の乏しさ、案内人を断ったこと、異常な寒波が重なったことが挙げられる。遭難の1週間後の1月30日には日英同盟が結ばれ、ロシアとの対立は深まっていった。2年後の日露戦争で第8師団は満洲の黒溝台で戦い、生還者の一人の倉石一大尉はそこで戦死した。事件ののち、ノルウェー国王から見舞いとしてスキー板が贈られ、1910年にはオーストリア=ハンガリーのレルヒ少佐が陸軍にスキーを教えた。

日露戦争に関わる図版:RUSSOJAPANESEWARIMAGE
日露戦争Wikimedia Commons Original uploader and author was Dustandshadow at en.wikipedia · Public domain

後藤伍長が見つかった場所に近い馬立場には、後藤をモデルにした遭難記念像が建てられた。事件が広く知られるようになったのは、1971年の新田次郎の小説『八甲田山死の彷徨』と、それを原作にした1977年の映画『八甲田山』からである。映画の台詞、天は我々を見放した、は流行語になった。ただし、山口少佐を無謀な上官として描いたことや、軍首脳による人体実験だったとする筋書きは、小説と映画の演出である。

動画(1)

発狂して雪の地獄に消えた210人!史上最悪の【八甲田山遭難事件】を地図アニメーションで解説非株式会社いつかやる210人が雪の山中で道を失っていく経過を地図アニメーションで追う

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