アクエンアテンの宗教改革
概要
多神教を捨ててアテン一神を強い、新都へ遷った。史上初の一神教の試みとも言われる。
場所
27.65°N 30.90°E · エジプト・ミニヤー県
関わった人(1)
アクエンアテンBC1380年頃–BC1336年頃 · 当人本文
紀元前14世紀のエジプトは、新王国の繁栄の頂点にあった。父アメンホテプ3世の長い治世のあいだ、国は豊かで、外国との戦争もほとんどなかった。都テーベでは、アメン神の神殿が王家の寄進で膨れ上がり、その神官団は大きな土地と富を持っていた。アメンホテプ4世が王位を継いだのは、紀元前1353年ごろとされる(年代には数年の幅がある)。
新しい王は、即位して間もなく、太陽の円盤の姿で表される神アテンを特別に崇め始めた。アテンはそれまでも太陽神の一つの姿として知られていたが、王はこれを他のすべての神の上に置いた。治世の5年目ごろ、王は「アメンは満足している」という意味の名を捨て、「アテンに役立つ者」という意味のアクエンアテンに改名した(アクエンアテン)。

同じ頃、王はテーベから北へ300キロほど下った、ナイル東岸の何もない砂漠の土地に新しい都を建て始めた。アケトアテン(アテンの地平線)と名づけられたその町は、いまアマルナと呼ばれる。町の境には、王がこの土地をアテンに捧げると誓った碑が立てられた。神殿には屋根がなく、太陽の光が直接降り注ぐ中で供物が捧げられた。
改革はやがて、他の神々を否定するところまで進んだ。アメン神の神殿は閉じられ、国中の碑文からアメンの名が削られた。「神々」という複数形の語まで消された場所もある。王の側近アイの墓に刻まれた「アテン讃歌」は、太陽が昇ると人も獣も目覚め、鳥が羽を広げ、船が川を行き交うと歌う。命を与える唯一の神への賛美で、旧約聖書の詩編104篇との類似がしばしば指摘される。

美術も大きく変わった。それまでの王の像は、若く引き締まった理想の体で表されてきた。アマルナの王は、細長い顔と垂れた顎、細い首、膨らんだ腹と太い腿という、奇妙なほど誇張された姿で描かれた。王が妻ネフェルティティや娘たちと抱き合い、口づけをする家庭の場面まで浮き彫りにされている。1912年にアマルナの彫刻家の工房跡で見つかったネフェルティティの胸像は、いまベルリンの博物館にある。王の体の表現が病気によるものか、宗教上の意味を込めた様式なのかは、議論が続いている。
これを史上初の一神教とみる見方がある。ただし、アテンを直接崇めることができたのは王と王妃だけで、民は王を通してしかアテンに近づけなかった。民の家からは、他の神々の小さな像やお守りも見つかっている。王を神とつなぐ唯一の存在にする仕組みだったとも言え、後のユダヤ教の一神教とはその点が違う。精神分析学者のフロイトは、モーセがアクエンアテンの信仰を受け継いだと唱えたが、それを支える証拠はない。

改革は、王の死とともに崩れた。アクエンアテンは治世17年目ごろに死んだ。短い治世の後継者を経て、若い王トゥトアンクアテンが即位し、まもなく名をトゥトアンクアメンに改めた。ツタンカーメンである(ツタンカーメンの治世)。アメン神の名を持つ名に戻したことが、改革の終わりを示していた。都はアマルナから戻され、神殿は再び開かれた。のちの王ホルエムヘブらは、アテンの神殿を取り壊して石材を自分の建物に使い、アクエンアテンの名を記念碑から消した。後の王名表には、アクエンアテンからツタンカーメンまでの王の名が載っていない。後世の文書では、アクエンアテンは名前ではなく「アケトアテンのあの罪人」と呼ばれた。
アマルナは、捨てられたおかげで残った。町は二度と使われず、後の建物に上書きされなかった。1887年、この地で地元の人々が粘土板の文書を見つけた。およそ380枚、多くは楔形文字のアッカド語で書かれている。バビロニア、ミタンニ、アッシリア、ヒッタイトの王たちとの外交の手紙や、カナンの町々の王からの訴えである。エルサレムの支配者が、助けの兵を送ってほしいとファラオに何度も書き送った手紙もある。当時の国際社会の共通語がアッカド語だったことを示す文書で(その始まりはアッカドのサルゴン)、紀元前14世紀の西アジアの外交の様子を、これほど生々しく伝えるものは他にない。
アクエンアテンの改革がなぜ起きたのかは、はっきりしない。アメンの神官団の力を削ぐための政治だったという見方もあれば、王自身の強い信仰によるものだという見方もある。消されようとした王の名は、3000年以上後に、捨てられた都の砂の中から掘り出された。