できごと

ツタンカーメンの治世

Reign of Tutankhamun
BC1332年
重要度 3
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このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているBC1332年の版図を描いています(30勢力)。

概要

9歳で即位し、父の宗教改革を戻し、19歳で死んだ。小さな墓が盗掘を免れ、3300年後に手つかずで開かれる。

場所

テーベ(王家の谷)
25.74°N 32.60°E · エジプト・ルクソール

関わった人(1)

ツタンカーメンBC1341年頃–BC1323年頃 · 王

本文

紀元前14世紀の半ば、エジプトは大きな揺れの中にあった。新王国の王アクエンアテンは、太陽の円盤の姿をとる神アテンだけをあがめ、何百年もエジプトの神々の頂点にいたテーベの神アメンの神殿を閉ざした(アクエンアテンの宗教改革)。アメンの名は記念碑から削られ、王は砂漠の中に新しい都アケトアテン、いまのアマルナを築いて移り住んだ。アメンに仕えてきた強大な神官団は力を奪われ、各地の神殿の祭りも途絶えた。

ツタンカーメンは、紀元前1341年ごろに生まれた。生まれたときの名はトゥトアンクアテン、「アテンの生ける似姿」という意味だった。両親が誰かは長く謎だったが、2010年に発表された王家のミイラの遺伝子の調査で、父はアクエンアテンとみられる男性のミイラで、母はその実の姉妹だったと推定された。この結果にも異論はあるが、少年がアマルナの王家に生まれたことは確かだ。

ツタンカーメンの子供である胎児317aと317bのミイラ
ツタンカーメンの子供である胎児317aと317bのミイラWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

アクエンアテンが亡くなったあと、短い治世の王が一人か二人続いた。その顔ぶれについては、いまも研究者の意見が分かれる。そして紀元前1332年ごろ、9歳ほどの少年が王位に就いた。妃に迎えたのは、アクエンアテンと王妃ネフェルトイティの娘で、少年の異母姉にあたるアンケセンパアテンだった。

幼い王の治世は、父の改革を元に戻すことから始まった。王は名前をトゥトアンクアメン、「アメンの生ける似姿」と改め、妃もアンケセンアメンと名を変えた。宮廷はアマルナを離れ、王はメンフィスを政治の拠点とし、テーベのアメンの神殿は再び開かれた。カルナック神殿に立てられた「復興の碑」は、神殿が荒れ果て、神々がエジプトに背を向けていたと述べ、王が神々の像を作り直し、神官を立て、財産を返したことを誇らしげに記している。アマルナの都はやがて打ち捨てられた。

狩猟をするツタンカーメンの像
狩猟をするツタンカーメンの像Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

もちろん、9歳の少年が自分でこれを決めたとは考えにくい。治世の実際の舵を取っていたのは、「神の父」の称号を持つ年長の廷臣アイと、軍の総司令官ホルエムヘブだったとみられている。王は戦車に乗る姿や、敵を打ち倒す姿でも描かれているが、それが実際の戦いを示すのかは分からない。

即位から10年ほどたった紀元前1323年ごろ、王は19歳ほどで亡くなった。死因はいまも議論が続いている。かつては、頭の骨に見える傷から暗殺説がささやかれたが、のちのCTの調査で、それはミイラ作りの際の損傷とされた。同じ調査で、左脚の太ももの骨折が見つかり、亡くなる少し前の怪我だった可能性が指摘された。遺伝子の調査では、重いマラリアにかかっていた痕跡と、足の骨の病気も見つかっている。墓には130本ほどの杖が納められていた。その死因を一つに決めることは、まだできない。墓には、生まれる前に亡くなった二人の女の子の小さなミイラも納められていた。王には跡継ぎがいなかった。

ツタンカーメンの厨子。頭上に日輪としてのアテンが描かれている。なお、「妻・子女」節での画像の椅子にもアテンが描かれている。
ツタンカーメンの厨子。頭上に日輪としてのアテンが描かれている。なお、「妻・子女」節での画像の椅子にもアテンが描かれている。Wikimedia Commons Warren LeMay from Cincinnati, OH, United States · CC0

王が亡くなったあとの出来事を伝えるかもしれない記録が、ヒッタイト(ヒッタイト)の側に残っている。エジプトの王の未亡人が、夫が亡くなり息子もいない、あなたの息子を一人よこしてくれれば夫にする、とヒッタイトの王に手紙を送ったという。ヒッタイトの王は疑いながらも王子を送り出したが、王子はエジプトへ向かう途中で殺された。この未亡人をアンケセンアメンとみる説が有力だが、ネフェルトイティなど別の王妃とする説もある。

ツタンカーメンの後には、年老いたアイが王位に就き、その後をホルエムヘブが継いだ。ホルエムヘブとその後の王たちは、アクエンアテンからアイまでの王たちを正統な王の系譜から外した。記念碑の名は削られ、のちの時代の神殿に刻まれた歴代の王の名簿にも、彼らの名は載っていない。ツタンカーメンの名も、ほとんど忘れ去られた。

通称「庭園での散策(独:Spaziergang im Garten)」という名のレリーフ。杖をついたツタンカーメンとアンケセナーメンが描かれているとされる。石灰岩製、ベルリン新博物館蔵。
通称「庭園での散策(独:Spaziergang im Garten)」という名のレリーフ。杖をついたツタンカーメンとアンケセナーメンが描かれているとされる。石灰岩製、ベルリン新博物館蔵。Wikimedia Commons Photo: Andreas Praefcke · Public domain

王の墓は、王家の谷の中でも小さなものだった。急な死のために、本来は王族ではない高官のために掘られていた墓を使ったのではないかとみられている。副葬品の中にも、もともと別の王のために作られ、名前を書き換えたものが含まれている。墓は葬られてまもなく、二度にわたって盗掘者に入られたが、そのたびに封じ直された。その後、200年ほどたって近くに別の王の墓が掘られた際、作業員の小屋と岩くずが入口を覆い隠した。

小さな墓であったことと、忘れられた王であったことが、墓を守った。3000年あまりのち、1922年にイギリスのハワード・カーターがこの墓を見つけたとき(ツタンカーメン王墓の発見)、黄金のマスクと棺、戦車や寝台や衣服まで、5000点を超える品々が、ほぼ葬られたままの姿で残っていた。在位10年ほどの、歴史の上では目立たない少年の王は、その墓のために、エジプトで最もよく知られた王になった。20世紀の後半、その副葬品の展覧会は世界中で長い行列を作ることになる(博物館に行列ができる)。

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アクエンアテンの宗教改革BC1350年頃
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