ツタンカーメン
概要
9歳で即位し19歳で没した少年王。ほぼ未盗掘の墓が1922年に見つかり、世界的に知られた。
所属
エジプト新王国関わったできごと(2)
ツタンカーメンの治世BC1332年 · 王ツタンカーメン王墓の発見AD1922年11月4日 · 被葬者本文
ツタンカーメンは紀元前1341年頃、エジプト新王国の第18王朝の王家に生まれた。生まれたときの名はトゥトアンクアテン、「アテン神の生ける似姿」を意味する。2010年に発表されたDNAの分析によれば、父は、それまでの多くの神々の崇拝をやめさせ、太陽円盤アテンだけを崇める宗教改革を行った王アクエンアテンとみられる(アクエンアテンの宗教改革)。母は、王家の谷の墓で見つかった身元の分からない女性のミイラで、アクエンアテンの姉妹だったと考えられている。ただし、これらの分析の結論には、異論を唱える研究者もいる。

少年は、アクエンアテンが中部エジプトに新たに築いた都アケトアテン(いまのアマルナ)で育った。父の死後、短い治世の王を挟んで、紀元前1332年頃、9歳前後で王位に就いた(ツタンカーメンの治世)。妻となったのは、アクエンアテンとネフェルティティの娘で、異母姉にあたるアンケセンパアテンだった。
幼い王に代わって国を動かしたのは、年長の重臣アイと、軍の司令官ホルエムヘブだったとみられる。治世の初めに、王は父の宗教改革を元に戻した。アマルナの都は捨てられ、王宮は伝統の都メンフィスへ、宗教の中心はテーベへ戻された。王は自らの名をトゥトアンクアメン、「アメン神の生ける似姿」に改め、妻もアンケセナーメンと名を変えた。カルナック神殿に立てた碑には、父の時代に神々の神殿は荒れ果て、神々は国を見捨てていた、と記されている。

およそ10年の在位の後、紀元前1323年頃、王は19歳前後で死んだ。跡継ぎはいなかった。王の墓からは、生まれる前に死んだ二人の女児のミイラが見つかっている。王の死後、未亡人となった王妃が、北の大国ヒッタイトの王に、王子を夫として送ってほしいと頼む手紙を書いたことがヒッタイト側の記録に残っている。王子はエジプトへ向かう途中で殺された。この王妃をアンケセナーメンとみる説が有力だが、確かではない。王位は老臣のアイが継ぎ、さらにホルエムヘブが継いだ。
ホルエムヘブとその後の王たちは、アクエンアテンからツタンカーメンを経てアイに至る王たちを、異端の時代として歴史から消した。後の時代に作られた王名表には、ツタンカーメンの名は無い。王の墓は小さく、場所も忘れられ、後の時代に近くに王墓を掘ったときの瓦礫の下に埋もれた。そのおかげで、王家の谷のほかの王墓がほとんど古代のうちに荒らされた中で、ツタンカーメンの墓だけが残った。古代にも二度ほど盗掘者が入った跡があるが、すぐに封印し直されていた。
1922年11月、英国の考古学者ハワード・カーターは、資金を出していたカーナヴォン卿の支援で何年も続けた発掘の最後の季節に、地下へ下りる階段を見つけた(ツタンカーメン王墓の発見)。封印された扉に小さな穴をあけ、ろうそくの明かりでのぞいたカーターは、何か見えるかと問われ、ええ、すばらしいものが、と答えたと伝えられる。前室には、黄金の寝台や玉座、解体された戦車、箱や壺が、ぎっしりと積み重なっていた。

墓から運び出された品は5000点を超え、すべての記録と整理には10年かかった。玄室には、金箔を張った4重の厨子の中に石棺があり、その中に人の形をした3重の棺が納められていた。最も内側の棺は110キロを超える純金でできていた。ミイラの顔を覆っていたのが、黄金のマスクである。一方で、杖や弓矢、王が子どもの頃に使った小さな椅子、衣服や下着、食べ物まで納められていた。王の墓に何が、どのように納められていたのかが、初めて丸ごと分かったのである。墓が開かれた翌年、カーナヴォン卿が蚊に刺された傷から感染症で死ぬと、「ファラオの呪い」の噂が新聞をにぎわせたが、根拠の無い話である。
王の死因は、今も分かっていない。1968年のX線撮影で頭蓋骨に損傷が見つかり、殺されたという説が広まったが、のちの調査では、ミイラ作りや発掘の際の損傷とする見方が強い。2005年のCTスキャンでは左脚の骨折が見つかり、戦車の事故説も出された。2010年のDNA分析では、マラリアの原虫の痕跡と、足の骨の病気が指摘された。墓から130本ほどの杖が見つかったことも、王が杖を頼りに歩いていたことを示すとする研究者もいる。

歴史の上では、ツタンカーメンは父の改革を元に戻した短い治世の少年王にすぎない。だが、ほぼ手つかずで見つかった墓によって、彼は古代エジプトで最も名の知られた王になった。その副葬品は、カイロ郊外に新しく建てられた大エジプト博物館に、まとめて展示されている。