アクエンアテン
概要
多神教を捨ててアテン一神への信仰を強い、新都アケトアテンへ遷った。死後すぐに元へ戻される。
所属
エジプト新王国関わったできごと(1)
アクエンアテンの宗教改革BC1350年頃 · 当人本文
紀元前14世紀の前半、エジプト新王国の最盛期に、王アメンホテプ3世と王妃ティイの子として生まれた。生年は紀元前1380年頃とされるが、幅がある。父の治世は戦争の少ない豊かな時代で、エジプトは西アジアの大国ミタンニやバビロニアと王女や黄金をやりとりする大国の一つだった。兄が若くして亡くなったため、跡継ぎとなった。

即位したとき、名はアメンホテプ4世だった。「アメン神は満ち足りている」という意味である。アメンは都テーベの神で、新王国の王たちが戦勝のたびに富を捧げてきたため、その神官団は王家に並ぶほどの土地と財産を持っていた。
若い王は、即位してすぐ、テーベのカルナック神殿の東に、太陽円盤の神アテンのための巨大な神殿を建てはじめた。アテンは古くからある太陽の一つの姿だったが、王はこれを、人や獣の頭を持つ神としてではなく、光の線を地上に投げかける円盤として表させた。光の線の先は小さな手になっていて、王と王妃に命の印を差し出している。

治世5年目頃、王は名をアクエンアテン、「アテンに役立つ者」と改めた。そしてテーベとメンフィスのほぼ中間、ナイル川東岸の、誰も住んでいなかった砂漠の平地に新しい都を建てた。アケトアテン、「アテンの地平線」である。いまはアマルナと呼ばれる。都の境には大きな碑が刻まれ、王はこの境の外には出ないと誓っている。
ここから、エジプトの宗教の大きな転換が始まった(アクエンアテンの宗教改革)。アテン以外の神々の祭りは行われなくなり、とりわけアメンは目の敵にされた。国中の神殿や碑文から、アメンの名や姿が削り取られた。神々を指す複数形の語まで削られた例がある。王の役人の墓に刻まれた「アテン讃歌」は、アテンを唯一の神として、世界と生き物の造り手として讃える。その一部が旧約聖書の詩篇の一つとよく似ていることは、古くから指摘されてきた。

美術も一変した。王の像は、それまでの若々しく引き締まった理想の姿ではなく、細長い顔、厚い唇、細い首、膨らんだ腰と腹という、奇妙な姿で表された。王が病気だったためという説もあるが、新しい神のもとで描き方の決まりを変えたためと見る研究者が多い。王妃ネフェルティティと娘たちとともに、王が子に口づけしたり膝に乗せたりする家族の場面も彫られた。それまでの王の姿には見られない、くつろいだ表現である。
都の跡からは、外国の王や属国の領主との間でやりとりされた粘土板の手紙が数百通見つかっている。アマルナ文書と呼ばれ、当時の国際語だったアッカド語の楔形文字で書かれている。その中には、シリアやパレスチナの属国の領主たちが、敵に攻められているのに援軍が来ないと繰り返し訴える手紙がある。王が宗教に没頭して外の守りをおろそかにした証拠と言われてきたが、これには異論もある。北ではヒッタイトが勢いを増し、エジプトの影響圏はこの時代に削られていった。

治世の後半については、分からないことが多い。王の墓には、娘の一人の死を王と王妃が嘆く場面が描かれている。ネフェルティティはある時期から記録に出なくなり、亡くなったとも、名を変えて共同統治者になったとも言われる。アクエンアテンは在位17年目頃、紀元前1336年頃に亡くなった。
死後、改革はすぐに覆された。正体のはっきりしない短い治世を挟んで、まだ子どもだったトゥトアンクアテンが王になると、その名はトゥトアンクアメンに改められた。いわゆるツタンカーメンである。都はアケトアテンから引き揚げられ、アメンの神殿は元に戻された(ツタンカーメンの治世)。数十年後、ホルエムヘブ王とその後の王たちは、アクエンアテンを王の名簿から消し、神殿を壊してその石を自分たちの建物の詰め物にした。後の記録では、彼は名を呼ばれず「アケトアテンの罪人」と書かれた。

皮肉なことに、その消し去りが記録を残した。運びやすい大きさに切りそろえられたアテン神殿の石材が、カルナック神殿の門などの内部から数万個も見つかり、壁画を組み直す研究が続いている。放棄された都アマルナは、後の町に埋もれることなく、そのままの形で砂に残った。1912年には、彫刻家の工房の跡から、ベルリンにあるネフェルティティの胸像が出ている。
王の遺体はどこにあるのか、確かなことは分かっていない。王家の谷のKV55と呼ばれる墓のミイラがアクエンアテンで、DNAの調べからトゥトアンクアメンの父だとする研究があるが、異論も多い。

アクエンアテンの信仰を、人類最初の一神教とみる人もいる。精神分析学者のジークムント・フロイトは、モーセがこの信仰をエジプトから持ち出したという大胆な説を書いた。だが、他の神々の存在そのものを否定したのか、ただ一柱を崇めるよう命じたのかについては、研究者の見方が分かれている。確かなのは、王一家だけが神アテンに近づけるとされたこの信仰が、民衆の間には根づかず、王一代で消えたことである。