できごと

灯油のランプ

Łukasiewicz's kerosene lamp
AD1853年7月31日
重要度 4
ロシア帝国大英帝国デンマークオスマン帝国Turanペルシアポルトガル帝国スウェーデン=ノルウェー中央アジアの諸ハン国スペイン帝国オーストリア帝国エジプトスペインフランスアフガニスタンNejdモロッコAlgiersグレートブリテン及びアイルランド連合王国プロイセン両シチリア王国バイエルンTunisサルデーニャ王国オマーンTripolitaniaハノーファーCyrenaicaAD1853年7月31日リヴィウ(ルヴフ)
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1853年7月31日の版図を描いています(28勢力)。

概要

ガリツィアの山あいでは、地面から黒い油がにじみ出ていた。薬局で働くウカシェヴィチは、それを蒸留して澄んだ灯油を取り出し、燃やすためのランプを作った。1853年の夏、ルヴフの病院で、夜の緊急の手術がこのランプの明かりの下で行われたと伝えられる。翌年、彼は油を汲み上げる井戸を掘り、やがて精製所を建てた。灯油は鯨の油よりずっと安く、どこの家でも夜に本が読めるようになる。石油は、燃料になるより前に、まず明かりとして世界に広まった。

場所

リヴィウ(ルヴフ)
49.84°N 24.03°E · ウクライナ・リヴィウ州

本文

カルパティア山脈の北の麓、いまのポーランド南東部からウクライナ西部にかけての地方を、ガリツィアと呼ぶ。19世紀の半ば、ここはオーストリア帝国の領土だった。山あいの村々では、地面から黒い油がにじみ出していた。農民はそれをすくい取って荷車の車軸に塗り、家畜の傷の薬にも使った。燃やせば火はつくが、煙がひどく、臭いがきつく、炎が暴れて明かりには向かなかった。

イグナツィ・ウカシェヴィチ(1822〜1882年)は、ポーランドの小さな地主貴族の家に生まれ、薬剤師の道に進んだ。若いころ、ポーランドの独立を目指す地下の運動に加わり、二年ほど牢に入れられたこともある。釈放されたのち、ルヴフ(いまのウクライナのリヴィウ)の「金の星」という名の薬局で働いた。薬局は、薬の調合と同時に、化学の実験室でもあった。

ガリツィアの油井(1881年)
ガリツィアの油井(1881年)Wikimedia Commons The original uploader was Silar at English Wikipedia . · Public domain

ウカシェヴィチは同僚のヤン・ゼーとともに、この黒い油を蒸留してみた。熱すると、温度ごとに違う成分が立ちのぼってくる。低い温度で出る軽いものは揮発しやすく、燃えすぎて危ない。高い温度で出る重いものは粘ってよく燃えない。その間で出てくる澄んだ油が、明るく、穏やかに燃えた。灯油である。カナダのエイブラハム・ゲスナーが石炭から同じような灯油を取り出していたが、ウカシェヴィチは、地面から湧く油から灯油を精製する道を開いた一人になった。

灯油を燃やすには、それに合ったランプが要る。芯を油に浸し、ガラスの筒で炎を囲み、下から空気を送り込む。空気がよく通れば、油は煙を出さずに明るく燃える。ウカシェヴィチは町のブリキ職人にランプを作らせ、薬局の窓に飾ったと伝えられる。

リヴィウ中心部の360度パノラマ
リヴィウ中心部の360度パノラマWikimedia Commons Matvey Andreyev · CC BY 3.0

1853年7月31日、ルヴフの病院で、夜のうちに急ぎの手術をしなければならない患者が出た。蝋燭の明かりでは暗すぎる。そこでウカシェヴィチのランプがいくつも運び込まれ、その明かりの下で手術が行われたと伝えられる。灯油の明かりが人の命を救った最初の記録の一つとされる。

ウカシェヴィチは、明かりを売るだけでなく、油そのものを手に入れる仕事に乗り出した。1854年、ガリツィアのボーブルカの村で、油を汲み上げるための井戸を掘り始めた。この油田は世界で最も古い部類に入り、いまは博物館として残されている。1856年には近くの町に精製所を建て、町の街灯にも灯油が使われるようになった。

リヴィウ駅
リヴィウ駅Wikimedia Commons Юрій Коберник · CC BY 4.0

同じころ、大西洋の向こうでも同じことが起きていた。1859年、アメリカのペンシルヴェニアで、エドウィン・ドレークが機械で掘った井戸から油を噴き出させた(ドレークの油井)。そこからアメリカの巨大な石油産業が始まり、灯油は世界中に輸出されるようになる。

灯油が広まる前、明るい明かりは高価なものだった。蜜蝋の蝋燭は教会や金持ちの家のもので、獣脂の蝋燭は安いが臭く、暗い。最も上等な灯火の油は鯨油で(鯨油)、鯨を追って何年も海に出る捕鯨船が運んでくるため、値が張った。灯油は、それよりずっと安かった。どこの家でも、夜に本が読め、縫い物ができる。夜が、働き、学ぶ時間に変わった。鯨油の値は下がり、捕鯨は衰えていった。灯油が鯨を救ったと言う人もいる。

ウカシェヴィチは石油の事業で財を成したが、その富の多くを地元の村々に注ぎ込み、学校や道や教会を建てた。晩年はボーブルカの近くの領地で暮らし、1882年に死んだ。地元では、彼は発明家というより、村を豊かにした恩人として記憶されている。

石油は、燃料になるより先に、まず明かりとして世界に広まった。油から灯油を取ったあとに残る軽いガソリンは、揮発しやすく危ないだけの、使い道のない残りものだった。ところが数十年後、エジソンの白熱電球をはじめとする電灯が灯油のランプを家々から追い出していくころ、そのガソリンで走る車が現れる(ガソリンで走る車)。明かりの歴史は、そのまま燃料の歴史の入り口になった。

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