三閉伊一揆
概要
盛岡藩の重税に苦しんだ三陸沿岸の民が1847年と1853年に起こした一揆。1853年には1万6千人が隣の仙台領へ越訴し、要求のほとんどを認めさせた。
場所
39.60°N 141.90°E · 岩手県の三陸海岸沿岸
本文
三閉伊一揆は、江戸時代の終わりに、盛岡藩(南部藩)の三陸沿岸で起きた百姓一揆である。弘化4年(1847年)と嘉永6年(1853年)の二度起こり、とくに二度目は参加者1万6千人あまりに達した。江戸時代でも最大級の一揆とされ、藩に要求のほとんどを認めさせた点でも際立っている。
盛岡藩は領内を33の通に分けて治めていた。そのうち野田通・宮古通・大槌通の三つは、いまの岩手県の三陸海岸にあたり、九戸郡と閉伊郡にまたがることから三閉伊通と呼ばれた。一揆の名はここから来ている。
藩の財政は早くから苦しかった。18世紀の終わりからロシア船が北に現れるようになると、幕府の命で蝦夷地の警備に兵を出し、その負担が重くのしかかった。1805年には石高を20万石に引き上げられたが、土地は増えないまま軍役だけが重くなった。寒い土地で米作りを押しつけ、凶作が続いた。1830年代の天保の飢饉では、領内で多くの餓死者を出している。同じころ大坂では大塩平八郎の乱が起き、各地で一揆や打ちこわしが相次いでいた。藩は借金を新しい税や御用金でまかない、藩札を刷りすぎて物の値を上げた。とりわけ、漁業や製材、製鉄で稼ぐ沿岸の三閉伊には、米の基準で重い税と度重なる御用金がかけられた。

最初の一揆は弘化4年の冬に起きた。藩はこの年、前年の御用金も納め終わらないうちに、ふたたび6万両の御用金を課した。田野畑の弥五兵衛という牛方が先頭に立った。弥五兵衛は荷を運んで藩の領内を歩き回り、各地で一揆を説いてきた人物だった。1万2千人あまりが遠野に押し寄せ、26か条の要求を出した。遠野の南部家は御用金の全面免除など12か条を認め、一揆勢は帰りの食料まで与えられて村に戻った。しかし藩は約束を守らず、弥五兵衛は捕らえられて1849年に殺された。
藩主の交代を経ても、前藩主の南部利済が実権を握り、側近による政治と重税は続いた。嘉永6年、ふたたび沿岸の民が立ち上がった。春に野田の代官所を襲った動きは指導者の急死でいったん止まったが、夏、田野畑村から改めて一揆が起きた。発頭人の筆頭は田野畑の畠山太助(多助)だった。一揆勢は白と赤のたすきを掛け、困るを意味する小○の字を書いた筵を旗にして、槍や棒の隊を組んで浜通りを南へ進んだ。村を越えるたびに人数がふくらみ、釜石に集まったときには1万6千人あまりになっていた。
一揆勢は藩の役所へは向かわなかった。峠を越えて隣の仙台藩の唐丹村(いまの釜石市)に入り、仙台藩に訴え出たのである。他の藩への越訴だった。要求は、三閉伊の百姓を仙台藩の領民として受け入れるか、三閉伊を幕府の直轄地にしてほしいという政治的なもの3か条と、役人を減らす、御用金や臨時の税をやめる、などの具体的なもの49か条だった。退けられた藩主の復帰も求めた。
盛岡藩は一揆勢の引き渡しを求めたが、仙台藩は応じなかった。ちょうどこの時、浦賀に黒船が現れ(黒船来航)、仙台藩にも沿岸の警備が命じられて、一揆どころではなくなった。仙台藩は代表45人を残して帰るよう勧めたが、一揆勢は帰らず、結局全員を仙台藩預かりとして保護した。長引く交渉に代表たちが故郷を恋しがると、太助は、帰って罰を受けても万人のためにならない、皆で覚悟を決めよう、と説いたと伝えられる。

盛岡藩は、藩主の復帰を除く一揆の要求をすべて受け入れ、指導者も罰しなかった。家老らは蟄居、勘定奉行以下2百数十人が職を解かれ、利済の一派は一掃された。翌年、利済自身も幕府に江戸へ呼び出されて謹慎となった。
一揆にはさまざまな仕事の人々が加わり、女性も多く、年齢も幅広かった。指導者たちが話し合って計画を立て、代表に万一のことがあれば村々が子孫に10年間養育料を払うという約束まで交わしていた。藩の政治そのものを問い、他領への越訴という方法で藩を公約に縛ったことから、幕末の一揆の中でも政治性の高いものとされる。指導者の一人だった栗林村の三浦命助は、のちに捕らえられて盛岡の牢で死んだ。命助が獄中で家族に書き送った帳面は、いまも残っている。