センナケリブのバビロン破壊
概要
アッシリア王が反乱を繰り返す都を徹底的に壊し、運河の水を流し込んだ。聖なる都を壊した罪だ、と息子はそれを元に戻す。
場所
32.54°N 44.42°E · イラク・バービル県
関わった人(1)
センナケリブ?–BC681年 · 命令本文
紀元前8世紀の終わり、アッシリアは西アジアの大半を支配する帝国になっていた。だが南のバビロンだけは、思うようにならなかった。バビロンは、アッシリアよりも古い宗教と学問の中心で、アッシリアの人びとも、その神々と文字と暦を敬っていた。力で押さえつければ神を怒らせる。かといって放っておけば、反乱の拠点になる。
センナケリブが紀元前705年に王になると、すぐにバビロンが背いた。カルデア人の首長マルドゥク・アプラ・イディナが王を名乗り、東のエラムと手を組んだ。センナケリブはこれを追い払い、まずバビロン生まれの貴族を王に据えた。それもうまくいかず、紀元前700年、自分の息子アッシュル・ナディン・シュミをバビロンの王にした。その数年前には西方に遠征し、ユダの都を囲んでいる(センナケリブのエルサレム包囲)。

センナケリブは、壊すだけの王ではなかった。都ニネヴェを大きく広げ、「並ぶもののない宮殿」と名づけた宮殿を建て、50キロ先の山から水路を引いて都と果樹園に水を送った。途中の谷には石を積んだ水道橋を架けている。水を操る技術を誰よりも持っていた王が、のちにその技術を、一つの町を消すために使うことになる。
紀元前694年、センナケリブはエラムを叩くため、船団をペルシア湾へ送った。その留守を突いて、エラム軍が北からバビロニアに攻め込んだ。バビロンの人びとは、自分たちの王である息子を捕らえ、エラムに引き渡した。息子はそのまま消息を絶つ。殺されたと考えられている。

戦いは数年にわたった。紀元前691年にはティグリス川のほとりのハルレで大きな会戦があり、どちらも勝ったと主張した。紀元前690年、センナケリブはバビロンを包囲した。城内は飢え、紀元前689年の暮れに陥落した。
センナケリブは、この町を残すつもりが無かった。のちに彫らせた碑文で、こう誇っている。家々を土台から壊して火を放ち、神殿と塔を倒して土を運河に投げ込んだ。町の中に運河を掘って水を流し、土台を消し、後の世に町のあった場所が分からないようにした。神々の像も砕くか、アッシリアへ運び去った。バビロンの主神マルドゥクの像も、アッシュルへ持ち去られた。

報復だったのだろう。だが、アッシリアの人びとにとってもバビロンは聖なる町だった。その町を水に沈めたことは、帝国の内部でも重い出来事として受け止められた。8年後の紀元前681年、センナケリブは自分の息子に殺された。聖書は、神殿で拝んでいるところを息子たちに討たれたと書く。後継者の座をめぐる争いだったが、バビロンの人びとはこれを神の罰と見た。
王位を継いだのは、別の息子のエサルハドンである。彼はすぐにバビロンの再建に取りかかった。碑文では、父の名は出さない。バビロンが荒れたのは、町の人びとの罪にマルドゥクが怒ったからだ、と説明した。神は町が70年荒れ果てると定めたが、慈悲をかけて11年に縮めた、とも書いている。楔形文字で70を表す二つの記号は、並びを入れ替えると11になる。神の決めた年月を、数字の向きで読み替えたのである。

エサルハドンの再建の碑文は、焼いた煉瓦を積み、神殿を元の場所に元の形で建て直したと誇る。町の住民で奴隷にされていた者は解放され、財産を返されたという。父の破壊と子の再建は、同じ問いに対する二つの答えだった。帝国は、自分よりも古い聖なる都とどう付き合うのか。
次の王アッシュルバニパルの代に、マルドゥクの像はバビロンに戻された。アッシュルバニパルはバビロンの粘土板を写させ、ニネヴェの都に大きな文書庫を作る(ニネヴェの図書館)。だが彼の兄でバビロンの王だったシャマシュ・シュム・ウキンが背き、兄弟は内戦を戦うことになる。バビロンとの争いはアッシリアの最後まで続き、紀元前612年、そのバビロンがメディアと組んでニネヴェ陥落をもたらす。再建されたバビロンは、やがてネブカドネザルのもとで帝国の都として最も華やかな時代を迎える(ネブカドネザルのバビロン)。