闇市
概要
敗戦直後、配給が行き詰まった日本の都市の焼け跡や駅前に立った非合法の市場。食料不足の人々の暮らしを支えた。
場所
35.69°N 139.70°E · 日本・東京都新宿区
本文
闇市は、第二次世界大戦の敗戦直後、日本の都市の焼け跡や駅前の空き地に一斉に立った非合法の市場である。物価と流通を国が統制し、食料を配給で配る仕組みが行き詰まる中で、人々は統制の外で物を売り買いして飢えをしのいだ。最初は「闇市」と蔑んで呼ばれたが、暮らしに欠かせないものと受け止められるようになると、片仮名で「ヤミ市」とも書かれた。
統制の始まりは戦争中にさかのぼる。1939年の価格等統制令で多くの品に公定価格が定められ、1940年からは都市部で米などの配給が始まった。表立って自由に売り買いできなくなったことで、戦時中からすでに裏の相場と闇取引が生まれていた。戦争の末期には東京大空襲をはじめとする空襲で都市が焼かれ、物資の不足はさらに深まった。

1945年8月15日の玉音放送で戦争が終わると、兵士の復員や外地からの引き揚げで都市の人口は膨れ上がった。しかし政府の統制物資はほぼ底をつき、配給は遅れや欠配が続いて実際には崩れていた。1945年には東京の上野駅付近で1日平均2.5人の餓死者が出たとされ、大阪でも毎月60人以上が栄養失調で亡くなった。11月には日比谷公園で「餓死対策国民大会」が開かれ、翌1946年5月の食糧メーデーには25万人が集まった。
市は終戦と同時に現れた。神戸の三宮では終戦翌日の8月16日に市が立ったといい、東京では8月20日に新宿駅東口に開かれた露天の市が第1号とされる。新宿で市を開いたテキヤの関東尾津組は「光は新宿より」という看板を掲げた。その後、上野、新橋、池袋、渋谷、大阪の梅田や鶴橋など、各地の駅前に次々と市ができた。空襲の延焼を防ぐために建物を壊した強制疎開の跡地は、そのまま市の場所になった。

はじめは笊に野菜を載せ、石油缶に魚を入れて売るような、物々交換に近いものだった。やがて木箱に雨戸を渡して台にし、一間四方ほどの店で雑炊やうどん、おでんを出すようになった。旧日本軍の物資や進駐軍の放出品、横流しの品、残飯までが飛ぶように売れた。酒の代わりのカストリ焼酎や、粗悪な紙のカストリ雑誌も並んだ。都市の人々は超満員の列車で農村へ買い出しに行き、米やサツマイモを背負って帰った。
ただし食糧管理法のもとでは、配給以外で食料を手に入れること自体が違法だった。警察は摘発して品物を没収し、1946年8月の大阪の闇市の封鎖はかえって庶民を苦しめた。市の場所はテキヤが仕切って地割りを決め、暴力団どうしの抗争や空き地の不法占拠も起きて治安は乱れた。1947年には、法を守って配給だけで暮らそうとした裁判官の山口良忠が栄養失調で亡くなり、法に従えば生きられないという現実が広く知られた。ヤミ米を買って検挙された人が、配給だけでは健康を保てず食糧管理法は日本国憲法の生存権に反すると訴えたが、1948年に最高裁判所はこれを退けている。マッカーサーの率いる連合国軍総司令部(GHQ)は、闇市の実態を報じる記事も検閲の対象にした。

物不足がやわらぐにつれ、闇市は役目を終えていった。1948年11月に主食の配給が1日2合7勺に増やされ、1949年に野菜、1950年に水産物の統制が外された。1951年には麦の統制撤廃が決まって米以外の食品はすべて自由に売れるようになり、ヤミ物資ではなくなった。同じ年の12月、GHQの勧告を受けて東京都内の常設の露店が廃止され、いわゆる闇市は姿を消した。
多くの闇市はそのまま商店街や繁華街になった。上野のアメヤ横丁、新宿西口の思い出横丁、吉祥寺のハモニカ横丁、大阪の鶴橋の商店街などには、今も当時の面影が残る。有楽町の「すしや横丁」のように、東京オリンピックを前に美観と防災を理由に取り壊された場所もある。黒澤明の映画『醉いどれ天使』(1948年)や『野良犬』(1949年)には闇市が描かれ、配給の外で生き延びた戦後の日々を伝えている。