できごと

曾我兄弟の仇討ち

Revenge of the Soga Brothers
1193年
重要度 3
古シベリアの狩猟採集民北極圏の海獣狩猟民クマン=キプチャク連合モンゴル系の人びとフィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民金(女真)チベット宋西夏スコータイ朝クメール帝国ヒンドゥーと仏教の小国群南詔南詔と大理パガン朝日本高麗アイヌ大越大越ピュー(驃)の諸都市モンの諸国チャンパ1193年富士野(位置は特定されていない)
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概要

1193年、源頼朝の富士の巻狩りのさなか、曾我祐成・時致の兄弟が父の仇の工藤祐経を討った。日本三大仇討ちの一つ。

場所

富士野位置は特定されていない(誤差 ±km)
35.22°N 138.62°E · 日本・静岡県富士宮市

関わった人(1)

源頼朝AD1147年–AD1199年 · 巻狩りを催し、捕らえた時致を尋問した

本文

建久4年(1193年)5月28日の夜、駿河国の富士野で、曾我十郎祐成と曾我五郎時致の兄弟が、父の仇である工藤祐経を討った。源頼朝が催した大がかりな巻狩りのさなか、将軍の宿所のすぐそばで起きた事件である。赤穂浪士の討ち入り(赤穂事件)、伊賀越えの仇討ちと並んで日本三大仇討ちに数えられ、のちの武士にとって仇討ちの手本となった。

事の起こりは17年前にさかのぼる。伊豆の伊東荘をめぐって、工藤祐経は一族の伊東祐親と所領を争っていた。祐経は祐親に領地を奪われ、妻とも離縁させられたと恨み、安元2年(1176年)10月、郎従に祐親を狙わせた。ところが放たれた矢は祐親ではなく、その子の河津祐泰に当たり、祐泰は命を落とした。真名本『曽我物語』によれば、このとき祐泰は31歳、長男の一万は5歳、次男の箱王は3歳だった。母はのちに相模の曾我祐信と再婚し、兄弟は曾我の姓を名乗って育った。

甲斐善光寺所蔵の源頼朝坐像
源頼朝Wikimedia Commons 氏子 · CC0

その後、世の中は大きく動いた。伊東祐親は平家方として頼朝と敵対して滅び、仇の工藤祐経は頼朝の側近として重んじられるようになった。兄弟にとって、仇は将軍に近い有力な御家人になってしまったのである。祐経は若いころ京で平重盛に仕え、歌や舞、鼓に通じていた。武功の記録はほとんど無いが、都の作法を知る者として頼朝に重用され、文治2年(1186年)に静御前が鶴岡八幡宮で舞ったときには鼓を打ったと『吾妻鏡』に見える。祖父が頼朝の敵だったこともあって、兄弟の立場は弱かった。弟の箱王は箱根権現に稚児として預けられたが、出家を嫌って山を下り、元服して五郎時致と名乗ったと伝えられる。

建久4年5月、頼朝は富士の裾野で大規模な巻狩りを催した。成立して間もない鎌倉幕府の記録である『吾妻鏡』によると、頼朝は15日に富士野の旅館に入り、翌16日から狩りが始まった。兄弟はこの機会に一行に加わっていた。28日の夜、兄弟は富士野の神野にある宿所に押し入り、祐経を斬った。酒の相手をしていた王藤内という者も討たれた。

騒ぎを聞いて御家人たちが駆けつけ、兄弟と斬り合いになった。『吾妻鏡』は、平子有長、愛甲季隆、海野幸氏ら多くの武士が傷を負ったと記す。兄の十郎祐成は仁田忠常と渡り合って討たれた。弟の五郎時致は頼朝の宿所をめがけて走り、頼朝自身が刀を取って迎え撃とうとしたが、大友能直に押しとどめられたという。五郎はまもなく取り押さえられた。時に兄は22歳、弟は20歳(いずれも数え年)だった。

翌29日、頼朝はみずから五郎を尋問した。その態度に感じ入った頼朝は命を助けることも考えたが、祐経の子の犬房丸が訴えたため、五郎はその日のうちに首を斬られた。頼朝は兄弟が母にあてた手紙を読んで涙を流し、それを保存させ、曾我荘の年貢を免じて兄弟の菩提を弔わせたと『吾妻鏡』は伝える。

この事件には、私怨による仇討ちだけでは片づかない点があるとも指摘されている。この巻狩りは、鎌倉幕府の成立から間もない頼朝が東国の武士に威勢を示し、嫡男の頼家を御家人たちに披露する場でもあり、その陣中で将軍の側近が殺され、将軍の宿所にまで刃が向かった。事件から間もなく、頼朝の弟の源範頼が謀反の疑いをかけられて伊豆に流されたことから、背後に政治的な動きがあったとみる説もある。ただし、はっきりした証拠はなく、真相は分かっていない。

兄弟の物語は、のちに『曽我物語』としてまとめられ、語り物として広まった。十郎の恋人だった大磯の遊女・虎が兄弟の菩提を弔って諸国を巡ったという話も、この物語によって知られる。『吾妻鏡』にも、事件の後に虎が取り調べを受けて放たれたことが記されている。一方、仇の祐経の子の犬房丸はのちに伊東祐時と名乗って家を継ぎ、その子孫は日向に下って戦国大名の伊東氏、江戸時代の飫肥藩主となった。室町時代には能、江戸時代には歌舞伎や浄瑠璃の「曽我物」となり、江戸の芝居では正月の興行に曽我物を出すのが恒例になるほど親しまれた。近代には教科書にも載ったが、戦後は仇討ちの話が敬遠され、知る人は少なくなっている。

動画(1)

絶対コ〇ス!歴史に残る激烈な復讐3選【曾我兄弟・戦国の復讐劇・日本最後の仇討ち】歴史ネタ解説非株式会社いつかやる復讐三選の一つとして曾我兄弟の仇討ちを語る

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