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Event / できごと

コソヴォ紛争とNATOの空爆

Kosovo War
AD1999年3月24日 – AD1999年6月10日
期間を持つできごと重要度 4
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このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1999年3月24日の版図を描いています(57勢力)。

概要

コソヴォはセルビアの南の地方で、住民の大半はアルバニア人だが、セルビア人にとっては中世の王国の聖地だった。1989年、ミロシェヴィッチは自治を奪う。アルバニア人の武装組織が生まれ、セルビアの軍と警察は村々を攻めた。1999年3月24日、NATOは、国連の安全保障理事会の決議を得ないまま、セルビアへの空爆を始めた。人道のための介入をうたう初めての大きな軍事行動である。空爆は78日続き、その間に数十万人のアルバニア人が追い出された。6月、セルビアは軍を引き、コソヴォは国連の管理の下に置かれた。2008年、コソヴォは独立を宣言した。

場所

プリシュティナ
42.66°N 21.17°E · コソヴォ

本文

コソヴォは、セルビアの南の地方である。中世のセルビアの王国の中心で、正教会の古い修道院が並び、1389年のコソヴォの戦いはセルビアの民族の記憶の核になっている。しかし20世紀の末には、住民の九割がアルバニア人になっていた。チトーの時代には、広い自治が認められていた。

1989年、ミロシェヴィッチはコソヴォの自治を取り上げた。アルバニア人は役所や学校や病院の職を追われ、自分たちで家の中に学校と病院を作って、非暴力で抵抗した。しかしデイトン合意でコソヴォのことが取り上げられなかったことに失望した若者たちは、武装組織コソヴォ解放軍を作り、セルビアの警察を襲いはじめる。1998年、セルビアの軍と警察は村々を攻め、数十万人が家を追われた。1999年1月、ラチャクの村で45人のアルバニア人の遺体が見つかった。

フランスのランブイエでの和平の交渉が失敗すると、1999年3月24日、NATOはセルビアへの空爆を始めた。中国とロシアの反対で、国連の安全保障理事会の決議は得られなかった。国の主権よりも人々を守ることを優先するという「人道的介入」を掲げた、NATOの初めての戦争である。空爆は78日続き、橋、発電所、放送局、工場が壊された。5月には、ベオグラードの中国大使館が誤って爆撃され、三人が死んだ。

空爆の間、セルビアの軍と警察はアルバニア人を大規模に追い出し、80万人を超える人が隣の国々へ逃れた。6月10日、ミロシェヴィッチは軍を引くことを受け入れ、コソヴォは国連の暫定の統治と、NATOの部隊の下に置かれた。今度は多くのセルビア人が報復を恐れて逃げた。ミロシェヴィッチは2000年に選挙で敗れて失脚し、ハーグの国際法廷に引き渡され、判決の前の2006年に獄中で死んだ。2008年、コソヴォは独立を宣言したが、セルビアとロシアはいまも認めていない。

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