報時球
概要
航海に出る船は、船の時計を正確に合わせておかなければ、海の上で自分の居場所を割り出せない。グリニッジの天文台は、屋根に長い柱を立て、赤い大きな球を取り付けた。毎日、昼の一時の少し前に球を柱の上まで引き上げ、一時ちょうどに落とす。テムズ川に停泊する船の上から、航海士たちはその瞬間を見て時計を合わせた。正午にしなかったのは、天文学者たちが正午には太陽を測るのに忙しかったからだと言われる。音ではなく、目に見える合図が、遠くの船に時刻を届けた。
場所
51.48°N -0.00°E · イギリス・ロンドン
本文
海の上で自分の居場所を知るには、緯度と経度が要る。緯度は太陽や北極星の高さで分かる。経度は、時刻の差で分かる。出港した港の時刻と、いま船のいる場所の時刻を比べればよい。地球は24時間で一回りするので、1時間の差が経度15度にあたる。そのためには、出港した港の時刻を、何週間もの航海のあいだ正しく刻み続ける時計が要る。18世紀にハリソンの航海時計がその時計を作り、19世紀には航海用の精密な時計(クロノメーター)が外洋船に積まれるようになった。
しかし、どれほど精密な時計も、出港の前に正しく合わせておかなければ意味が無い。そして、わずかずつ進んだり遅れたりする癖を知っておく必要もある。1秒の狂いが、赤道上ではおよそ460メートルの位置の誤りになる。19世紀の初め、船の時計を合わせるには、時計を抱えて天文台まで行くか、天文台で合わせた懐中時計を持った人に船まで来てもらうしかなかった。ロンドンのテムズ川には、いつも何百もの船が停泊していた。

イギリス海軍の士官ロバート・ウォーコップは、もっと簡単な方法を考えた。高いところから大きな球を落とすのである。決まった時刻に球が落ちる瞬間を見れば、離れた船の上からでも、誰でも時計を合わせられる。1829年、軍港ポーツマスで試され、うまくいった。そして1833年、ロンドン東郊のグリニッジにある王立天文台の屋根の小塔に、報時球が据え付けられた。
仕組みは単純である。塔の上に長い柱を立て、赤く塗った大きな球を通す。毎日、12時55分に球を柱の半ばまで引き上げる。これが「用意」の合図になる。12時58分に、いちばん上まで上げる。そして午後1時ちょうどに、球を落とす。テムズ川の船の上では、航海士たちが望遠鏡でその瞬間を見つめ、手元の時計の進みや遅れを確かめた。

なぜ正午ではなく1時なのか。天文台の天文学者たちは、正午ごろ、太陽が真南を通る瞬間を観測していた。それが天文台の時計を正す基準だったから、手が離せない。それで、少し後の1時にした、と言われている。
報時球は、世界中の港に広がった。1845年にはワシントンのアメリカ海軍天文台に、のちには植民地の港にも立てられた。香港の港を見下ろす丘にも、19世紀の終わりに報時球が置かれている。やがて電信が普及すると、モールスの電信と同じ電線を使って、グリニッジの時計から遠くの報時球を落とす信号を送るようになった。1850年代には、ロンドンの街なかやドーヴァー海峡に近いディールの港の球が、グリニッジと同じ瞬間に落ちるようになった。目に見える合図が、電気でつながったのである。
グリニッジの時刻は、イギリスの中で次第に基準になっていった。各地の町はもともと太陽に合わせた自分たちの時刻を使っていたが、鉄道と標準時によって、全国の時刻がグリニッジの時刻にそろえられていった。1884年の本初子午線会議では、グリニッジを通る子午線が経度0度と決められた。航海の時刻を正すための天文台は、世界の時刻の原点になった。
20世紀に入ると、無線による時報が報時球に取って代わった。船は港にいなくても、海の上で時刻を受け取れるようになった。各地の報時球は、役目を終えて取り壊されたり、飾りとして残されたりした。ニューヨークのタイムズスクエアで大晦日の夜に光る球を降ろすのも、この報時球にちなむ習わしとされる。
グリニッジの球は、いまも毎日、午後1時に落ちている。途中で何度か壊れて取り替えられ、強い風の日は上げないこともあるが、190年あまり続いている。天文台は観光地になり、球が落ちる瞬間を待つ人が塔の下に集まる。

時刻を知らせるには、音か、光か、形か。音は遠くへ行くほど遅れて届く。空気の中を音が進むのは1秒に340メートルほどなので、1キロ先では3秒近く遅れる。目に見える合図なら、その遅れがほとんど無い。精密な時計を合わせたい船にとっては、見える合図のほうが正確だった。一方、明治の東京は、正午に大砲を撃って時刻を知らせる午砲を選んだ。こちらは船ではなく、町じゅうの人々に届けるための合図だった。何のために、誰に時刻を届けるのかで、合図の形は変わったのである。