タンボラ山の噴火
概要
インドネシアのスンバワ島のタンボラ山が、記録に残る中で最大の噴火を起こした。翌1816年は世界で「夏のない年」になった。
場所
-8.25°N 118.00°E · インドネシア・西ヌサ・トゥンガラ州(スンバワ島)
関わった人(1)
スタンフォード・ラッフルズAD1781年7月6日–AD1826年7月5日 · ジャワ副総督として被害の報告を集めた本文
タンボラ山は、いまのインドネシアのスンバワ島にある火山である。噴火の前の高さはおよそ4300メートルあり、島々の中でも指折りの高峰だった。山は何百年も眠っていたが、そのあいだに地下のマグマだまりでは圧力が高まり続けていた。1812年ごろから山は鳴動を始め、黒い雲を上げるようになった。
当時のジャワ島と周辺は、ナポレオン戦争のさなかにオランダ領からイギリスの占領下に移っていた。ジャワの副総督を務めていたのがスタンフォード・ラッフルズである。のちに被害の様子が分かるのは、ラッフルズが各地の役人に報告を求め、その記録を残したことによるところが大きい。

1815年4月5日、最初の大噴火が起きた。爆音は380キロ離れたスラウェシ島のマカッサル、1260キロ離れたジャワ島のバタヴィア(いまのジャカルタ)でも聞こえ、人々は大砲の音だと思った。翌日から東ジャワに灰が降り始めた。
4月10日の午後7時ごろ、噴火は一気に激しくなった。三本の噴煙の柱が立ちのぼって一つになり、山全体が流れる火の塊のようになったと記録されている。直径20センチほどの軽石が降り、続いて灰が降った。火砕流は半島の四方へ海まで流れ下り、ふもとのタンボラ村を消し去った。周辺の島々の海岸には高さ数メートルの津波が押し寄せた。爆音は2600キロ離れたスマトラ島でも聞こえ、翌11日の夕方まで続いた。
この噴火は、火山爆発指数で7とされる。噴き出したものは岩石に換算して37から45立方キロメートルにのぼり、記録の残る人類の歴史の中で最大の噴火とされる。山頂は吹き飛んで高さは2851メートルまで下がり、直径6〜7キロ、深さ600〜700メートルのカルデラが残った。ヴェスヴィオ火山の噴火のような名高い噴火と比べても、桁がいくつも違う。これより大きい噴火となると、7万年以上前のトバ火山の噴火のような、文字の無い時代までさかのぼる。

島の植物はすべて焼き払われた。直接の犠牲は約1万人と見積もられ、その後、作物が失われたスンバワ島と隣のロンボク島で、飢えと病気によってさらに多くの人が死んだ。死者の総数は資料によって大きく違い、かつて広く引かれた8万8000人という数には根拠を疑う研究もある。少なくとも7万1000人とする見積もりがある一方で、10万人に達したとする研究者もいる。
噴煙は高さ40キロを超えて成層圏に達し、細かい灰と硫黄のガスは数年にわたって地球をめぐった。1815年の夏から秋にかけて、ロンドンでは長く鮮やかな夕焼けが何度も見られた。同じ年の6月に戦われたワーテルローの戦いの前夜の大雨を、この噴火と結びつける研究者もいるが、確かなことは分かっていない。
影響がはっきり現れたのは翌1816年である。北半球の夏の気温は平均で約0.5度下がり、ヨーロッパと北アメリカでは冷たい雨と霜が続いた。アメリカのニューイングランドでは6月に雪が降り、各地で収穫が落ち込んだ。この年は「夏のない年」と呼ばれる。食糧の値上がりと飢えが広がり、ヨーロッパの一部では暴動も起きた。
その夏、スイスのジュネーヴ湖のほとりに滞在していた若いメアリー・シェリーたちは、悪天候のため屋内にこもり、怪談を書き比べた。そこから小説『フランケンシュタイン』が生まれたことはよく知られている。馬の飼料が高騰したことが、ドイツのドライスが1817年に人の足で進む乗り物を作るきっかけになったという説もあるが、これには異論もある。
火山の噴火が世界の気候を変えることは、当時はまだ理解されていなかった。それが学問の常識になるのは、1883年のクラカタウ火山の噴火で世界の空が赤く染まった後のことである。タンボラ山の噴火は、遠い島の一つの山が、地球の裏側の人々の食卓と暮らしまで揺さぶりうることを示した出来事だった。