向羽黒山城の築城
概要
会津の戦国大名・蘆名盛氏が隠居の城として岩崎山に築いた日本最大級の山城。のちに上杉景勝が徳川家康との戦いに備えて手を入れた。
場所
37.45°N 139.90°E · 福島県大沼郡会津美里町
関わった人(1)
伊達政宗AD1567年9月5日–AD1636年6月27日 · 蘆名氏を滅ぼして会津を得た本文
会津盆地の南の端、阿賀川のほとりに、岩崎山という山がある。向羽黒山とも呼ばれるこの山に、会津の戦国大名・蘆名盛氏が永禄4年(1561年)から城を築き始め、永禄11年(1568年)に完成させた。東西1.4キロ、南北1.5キロ、面積はおよそ50ヘクタールに及び、日本で最大級の山城に数えられる。
蘆名氏は鎌倉時代から会津を治めた一族で、盛氏はその16代目にあたる。1521年に生まれ、1541年に家督を継いだ。伊達氏の内紛に乗じて会津での力を固め、中通りへも兵を出して田村氏や佐竹氏と争った。金山の開発や商人の登用で流通を押さえ、蘆名氏の最盛期を築いた人物である。

1561年、盛氏は庶兄の謀反を鎮めたのち、家督を嫡男の盛興に譲り、岩崎城に隠居して止々斎と号した。この隠居の城が向羽黒山城である。ただし隠居は名ばかりで、盛氏は死ぬまでここで政治と軍事の実権を握り続けた。本拠の黒川城(のちの会津若松城)から10キロほど離れたこの城は、南から攻め込む敵を防ぐ守りの拠点でもあった。
城は山の峰と尾根の全体を使って造られた。山頂の本丸(実城)を中心に、二の丸、三の丸、盛氏の屋敷跡と伝わる曲輪が並ぶ。尾根を断ち切る堀切、斜面を縦に走る竪堀、空堀、土塁が至るところに掘られ、入口の虎口は折れ曲がって攻め手の足を止める。東は阿賀川と崖に守られた。峰と峰の間の鞍部からは庭園の跡も見つかっており、城主が暮らす場でもあったことが分かる。
蘆名氏の盛りは長く続かなかった。1574年、跡を継いでいた盛興が29歳で急死した。盛氏には他に男子がおらず、人質としていた二階堂氏の子・盛隆に盛興の未亡人をめとらせて家を継がせ、自ら後見した。盛氏は1580年に死に、盛隆も1584年に家臣に殺された。家督をめぐって家中が割れるなか、1589年、蘆名氏は摺上原の戦いで伊達政宗に敗れ、滅んだ。
城はその後も残った。会津は政宗の手に渡ったが、翌1590年の秀吉の天下統一の後の仕置で取り上げられ、蒲生氏郷が入った。続いて1598年には上杉景勝が越後から移ってきた。いずれも平地の若松城を本拠とし、向羽黒山城は戦のときに立てこもる詰の城として使った。
上杉氏は1598年から翌年にかけて、籠城に備えて城に手を入れた。朝鮮出兵のときに朝鮮半島南岸に築かれた日本式の城を参考にしたともいわれる。秀吉の死後、景勝は五大老の一人として徳川家康と対立を深め、1600年には盆地の中央に新しい神指城を築き始めた。家康はこれを謀反の備えと責めて会津攻めに乗り出し、その途中で石田三成が挙兵して関ヶ原の戦いとなる。向羽黒山城は、家康を迎え撃つための城の一つでもあった。

関ヶ原で西軍が敗れると、上杉氏は1601年に米沢30万石へ移され、向羽黒山城は役目を終えて廃城となった。石垣の多い近世の城と違って、土を削って造った戦国の山城の姿がそのまま山に残ったことになる。
城跡は2001年に国の史跡に指定され、2017年には続日本100名城に選ばれた。いまも竪堀や堀切、虎口の跡を歩いてたどることができる。二の丸の跡からは会津盆地を一望でき、蘆名氏が守ろうとした土地の広がりが見える。
戦国時代の大きな山城としては、越後の春日山城、近江の小谷城や観音寺城、出雲の月山富田城などが知られ、向羽黒山城はそれらと並べて語られることが多い。いずれも山全体を城に変え、尾根ごとに曲輪を連ねた造りで、天守や高い石垣を備えた近世の城とは姿がまったく違う。会津ではその後、平地の若松城が藩の中心であり続け、幕末の会津戦争で新政府軍を相手に籠城したのも若松城だった。山の上に残された向羽黒山城の土の守りは、それより300年近く前の戦国の戦い方をいまに伝えている。