できごと

テムズ・トンネル

The Thames Tunnel
AD1843年3月25日
重要度 4
ロシア帝国大英帝国デンマークオスマン帝国ポルトガル帝国スウェーデン=ノルウェースペイン帝国オーストリア帝国エジプトスペインフランスモロッコAlgiersグレートブリテン及びアイルランド連合王国プロイセン両シチリア王国バイエルンTunisサルデーニャ王国TripolitaniaハノーファーCyrenaicaAD1843年3月25日ロンドン
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1843年3月25日の版図を描いています(22勢力)。

概要

水底の軟らかい泥の下を掘る。崩れる。マルク・ブルネルは、船食い虫が硬い殻を分泌しながら木を進む様子から、掘る先端を鉄の枠で囲う方法を考えた。掘っては枠を前へ押し、後ろを煉瓦で固める。シールド工法である。1825年に着工し、五度の浸水と、汚水による病と、資金の枯渇に遭い、十八年かかった。息子イザムバードも溺れかけている。開通後は歩行者の通路となり、後に鉄道が通った。いまもロンドン地下鉄が走っている。

場所

ロンドン
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド

関わった人(1)

マルク・イザムバード・ブルネルAD1769年4月25日–AD1849年12月12日 · 設計

本文

19世紀の初め、ロンドンは世界最大の港だった。テムズ川の両岸には波止場と倉庫が並び、無数の帆船が行き交っていた。だが、ロンドン橋より下流には橋が無かった。橋を架ければ、背の高い帆柱を持つ船が通れなくなるからである。両岸を行き来するには渡し舟に頼るか、遠回りして上流の橋を渡るしかなかった。

それなら川の下を掘ればよい。だが、それは途方もなく難しかった。深いところのロンドン粘土ならまだしも、川床のすぐ下は水を含んだ砂と砂利と泥で、掘れば崩れ、川の水がなだれ込んでくる。1805年には、コーンウォールの鉱山技師たちが、蒸気機関の先駆者リチャード・トレヴィシックを加えて川の下に坑道を掘り始めた。300メートルほど進んだところで二度水が入り、工事は打ち切られた。川の下にトンネルを通すのは不可能だ、という結論が下された。

テムズトンネル建設に使われたシールドの図
テムズトンネル建設に使われたシールドの図Wikimedia Commons Unknown Unknown · Public domain

この難題に挑んだのがマルク・イザムバード・ブルネル(1769〜1849年)である。フランスに生まれ、革命を逃れてアメリカへ渡り、のちにイギリスに移り住んだ技術者で、船の滑車を機械で量産する仕組みを作って名を上げていた。伝えられるところでは、彼はチャタムの造船所で、船の木材に穴を開けるフナクイムシを観察して着想を得た。フナクイムシは虫ではなく貝の仲間で、硬い殻の先で木を削りながら進み、通った跡の壁を自分の出す石灰質で固めていく。だから穴は崩れない。掘る先端を囲い、掘り進みながら後ろを固めればよいのだ、と。この話はブルネル自身の説明として伝わっているもので、実際の着想の経緯をどこまで映しているかは確かめられない。

1818年、ブルネルはこの方法で特許を取った。鉄の枠を格子に組み、縦に三段、横に十二列、合わせて36の小部屋を作る。それぞれの部屋に坑夫が一人ずつ入り、目の前の土には板が何枚も当ててある。坑夫は板を一枚だけ外し、その分だけ土を掘って、板を少し前に当て直す。これを繰り返し、すべての板が少しずつ前に出たら、枠全体をねじで前へ押し出す。そして空いた後ろに煉瓦を積んで壁を作る。一度に全面を開けることはなく、掘っている面はいつもどこかが支えられている。これが、のちにシールド工法と呼ばれる方法の始まりだった。

ロザーハイズのブルネル博物館(英語版)に展示されているシールドマシンの模型
ロザーハイズのブルネル博物館(英語版)に展示されているシールドマシンの模型Wikimedia Commons Dunks58 at English Wikipedia · Public domain

1825年、工事が始まった。だが、そこから18年に及ぶ苦闘が待っていた。トンネルには何度も水が入り、大きな浸水だけで5回を数えた。1827年5月18日の最初の大浸水は、川底の泥を浚う船が掘りすぎて、トンネルの上の土が薄くなっていたことが一因とされる。現場を率いていたのは、まだ20歳そこそこの息子イザムバード・キングダム・ブルネルだった。彼は潜水鐘に乗って川底へ下り、粘土を詰めた袋で穴を塞いだ。

1828年1月12日、二度目の大浸水が起き、6人が死んだ。イザムバード自身も水に流されて大けがを負い、命を取り留めた。療養のために向かったブリストルで、彼はクリフトンの吊り橋の設計競技に応募し、やがて鉄道や巨大な蒸気船を手がける技術者としての道を歩み始めることになる。トンネルのほうは資金が尽き、工事は入り口を煉瓦で塞がれたまま7年近く止まった。政府の融資を得てようやく再開したのは、1830年代の半ばである。

テムズトンネル掘削工事の断面図、おそらく1840年頃のもの
テムズトンネル掘削工事の断面図、おそらく1840年頃のものWikimedia Commons Taulman after Bonisch · Public domain

坑夫たちを苦しめたのは水だけではなかった。当時のテムズ川は、ロンドンの汚水がそのまま流れ込む下水でもあった。掘っている坑夫の頭上からは汚れた水が滴り、熱や目の病、皮膚の炎症に倒れる者が続出した。記録に残る死者は十数人だが、実際にはもっと多かったと考えられている。坑内には川底の泥から出るガスもたまり、火が点いて青い炎が走ったという記録もある。費用は当初の見積もりを大きく超えた。

1843年3月25日、トンネルはついに開通した。長さは約396メートル、幅は約11メートルで、二本の通路が並んでいる。馬車を通すための斜路も計画されていたが、金が無くて造れず、歩く人だけの通路として開かれた。通行料は1ペニーである。最初の数か月で100万人が通ったとされ、「世界の八番目の不思議」とまで呼ばれた。トンネルの中には露店が並び、大道芸人が芸を見せ、年に一度は市も開かれた。だがやがて、すりや客引きのたむろする場所として評判を落としていく。

テムズ・トンネルへの地下経路と接続路(赤で表示)
テムズ・トンネルへの地下経路と接続路(赤で表示)Wikimedia Commons Route highlighting in RED by Jonathan Bluestone, derived from an Ordnance Survey map published ca. 1889 · Public domain

1865年、トンネルは鉄道会社に買い取られ、1869年から列車が走り始めた。いまもロンドンの東部を走る鉄道の路線として、ワッピングとロザーハイズの間で使われている。川の底を通るトンネルとしては世界で最も古いものの一つで、それが180年たったいまも毎日人を運んでいる。

ブルネルのシールドは、その後、世界中のトンネル工事の土台になった。19世紀の後半には、ジェイムズ・ヘンリー・グレートヘッドらが筒の形をした円いシールドを使うようになり、トンネルの中の気圧を上げて水を押し返す方法と組み合わせた。ロンドンの地下深くを走る地下鉄の「チューブ」は、この方法で掘られた(ロンドン地下鉄の開業)。いまの巨大なトンネル掘削機も、原理は同じである。掘る先端を囲い、後ろを固めながら進む。日本の青函トンネルも、イギリスとフランスを結ぶ海峡のトンネル(英仏海峡トンネルの開通)も、その延長線上にある。

M.I.ブルネル
マルク・イザムバード・ブルネルWikimedia Commons Original uploader was ChrisO at en.wikipedia · Public domain

ブルネル本人の人生も平坦ではなかった。トンネルの工事が始まる前の1821年、彼は事業の失敗で借金を抱え、債務者の監獄に入れられている。そのときロシアの皇帝が彼を招こうとしていると聞いたイギリス政府は、この才能を外国に取られてはならないと考え、慌てて借金を肩代わりした。開通の2年後、ブルネルは脳卒中で倒れ、1849年に80歳で亡くなった。

テムズ川の汚れが坑夫を倒したことは、ロンドンという都市の抱えた問題を映してもいた。トンネルの開通から十数年後、悪臭に耐えかねた議会は、ようやく巨大な下水道の建設に乗り出す(ロンドンの下水道)。川の下を掘る技術と、川を汚さない仕組みは、同じ世紀のうちにロンドンの地下に並んで造られていったのである。

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