リュッツェンの戦い
概要
三十年戦争の主役だったスウェーデン王が、霧の中で味方から離れて撃たれた。軍は勝ったが、王を失った。
場所
51.25°N 12.14°E · ドイツ・ザクセン=アンハルト州
関わった人(1)
グスタフ2世アドルフAD1594年12月9日–AD1632年11月16日 · 戦死本文
三十年戦争は1618年にボヘミアのプロテスタント貴族の反乱から始まり、神聖ローマ帝国の皇帝とカトリック諸侯が優勢のまま10年あまりが過ぎた。皇帝軍の将ヴァレンシュタインは、自分で兵を集めて戦地の住民から取り立てる仕組みで巨大な軍を養い、北ドイツまで皇帝の力を広げた。バルト海の対岸にまで皇帝の勢力が迫ることを、スウェーデン王グスタフ2世アドルフは危ういと見た。
1630年、グスタフ・アドルフはポメラニアに上陸した。スウェーデンの軍は、徴兵による国民の兵を中核に、軽くて扱いやすい大砲を歩兵と組み合わせ、銃兵の列を薄く広げて一斉射撃を繰り返す戦い方で知られていた。1631年、ライプツィヒ北方のブライテンフェルトで皇帝・カトリック連盟軍を破り、翌年には南ドイツに攻め込んでバイエルンにまで達した。プロテスタントの人々にとって、王は「北方の獅子」と呼ばれる救い主になった。

追いつめられた皇帝は、一度は解任していたヴァレンシュタインを呼び戻した。ヴァレンシュタインはニュルンベルク近郊の陣地にこもってスウェーデン軍の攻撃を退け、その後ザクセンに入った。11月、冬も近づいたことから、彼はもう大きな戦いは無いと見て軍を分け、勇猛で知られる騎兵の将パッペンハイムを北のハレへ向かわせた。それを知ったグスタフ・アドルフは、すぐに攻撃を決めた。
1632年11月16日(当時スウェーデンが使っていた暦では6日)、ライプツィヒの南西、リュッツェンの町の近くで両軍がぶつかった。皇帝軍は街道沿いの溝に銃兵を入れ、町の風車のある丘に大砲を並べて待ち構えた。朝は濃い霧で、戦いが始まったのは昼近くになってからだった。ヴァレンシュタインは急いでパッペンハイムを呼び戻し、パッペンハイムは昼過ぎに騎兵を率いて駆けつけたが、まもなく砲弾を受けて致命傷を負った。

グスタフ・アドルフは、いつものように自ら右翼の騎兵の先頭に立っていた。苦戦している中央の歩兵を助けようと馬を走らせたとき、霧と硝煙のなかで少数の供回りとともに本隊からはぐれた。敵の騎兵の中に入り込み、腕を撃たれ、馬を撃たれ、背中を撃たれて落馬し、最後に頭を撃たれた。身につけていたものは剥ぎ取られ、遺体は泥の中に残された。乗り手を失った王の馬が血を流して味方の陣に戻ってきたことで、王の身に何かがあったと知れたという。
指揮を引き継いだのはザクセン=ヴァイマル公ベルンハルトだった。王の死は兵の動揺を恐れて伏せられたとも、逆に知れ渡って兵が復讐に燃えたとも伝わる。スウェーデン軍は夕方までに風車の丘と大砲を奪い、ヴァレンシュタインは夜のうちに大砲と負傷者を残して退いた。両軍とも数千人の死傷者を出した。戦場を取ったのはスウェーデン軍だったが、何よりも大きなものを失った。

王の遺体は翌日見つかった。防腐処理をされて、長い時間をかけて本国へ運ばれ、1634年にストックホルムのリッダルホルム教会に葬られた。王位を継いだのは6歳の娘クリスティーナで、国政と戦争は宰相オクセンシェルナが担った。スウェーデンはその後も戦い続け、カトリックのフランスも資金を出して加わり、戦争は宗教の争いから大国どうしの争いへと姿を変えていく。ヴァレンシュタインは、勝手な和平交渉を疑われて1634年に皇帝の命で暗殺された(ヴァレンシュタインの暗殺)。戦争が終わるのは、リュッツェンから16年後の1648年である(ウェストファリア条約)。
王が倒れた場所には、のちに「スウェーデンの石」と呼ばれる大きな石が置かれ、いまは記念の礼拝堂が建っている。スウェーデンでは11月6日が「グスタフ・アドルフの日」とされ、王の横顔をチョコレートや砂糖で飾った小さな菓子が売られる。王の死から2世紀ほどたった19世紀に広まった習わしである。