甲州勝沼の戦い
概要
戊辰戦争で、甲府城をめざした近藤勇ら旧新選組の部隊が、先に甲府に入った板垣退助の新政府軍に勝沼の柏尾で敗れた戦い。
場所
35.67°N 138.72°E · 山梨県甲州市
関わった人(4)
近藤勇1834年–1868年 · 旧幕府側の部隊を率いた土方歳三AD1835年5月31日–AD1869年6月20日 · 援軍を求めて江戸へ戻った板垣退助1837年–1919年 · 新政府軍の参謀として甲府に先着した勝海舟1823年–1899年 · 旧幕府の陸軍総裁として出兵を認めた本文
慶応4年3月6日(1868年3月29日)、甲斐国の勝沼(いまの山梨県甲州市)の東の柏尾で、旧幕府側の部隊と新政府軍が戦った。旧幕府側を率いたのは新選組の局長近藤勇である。戦いは2時間ほどで終わり、近藤の部隊は山中を江戸へ逃げ帰った。柏尾の戦いとも呼ばれる。
この年の正月、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗れ、新選組も江戸へ引き揚げた。新政府は東海道・東山道・北陸道の三方から江戸へ兵を進めた。近藤は、甲府城を任せてほしいと願い出た。甲府は江戸の西の守りであり、幕府直轄の城だった。陸軍総裁の勝海舟はのちに、近藤らは表向きは恭順しながら一戦を期して甲府へ向かった、と書いている。勝が厄介払いのために彼らを送り出したという見方もあれば、交渉を有利にするため、わざと動かしたのではないかと考える研究者もいる。

2月28日に正式に甲府鎮撫の命が下り、3月1日、近藤は江戸を発った。新選組の約70人に、会津や彦根の藩士、浅草の弾左衛門の配下を集めた銃隊などを加えた、200人に足りない混成の部隊だった。近藤は大久保剛、副長の土方歳三は内藤隼人と名を改めていた。この部隊は甲陽鎮撫隊の名で知られるが、その呼び名は当時の史料には見えず、明治32年の雑誌の記事が初めとされる。
一方、新政府の東山道軍は、下諏訪で本隊と別働隊に分かれた。別働隊を率いたのは土佐の板垣退助で、甲府城に先に入った者が勝つと見て、甲州街道を急ぎに急いだ。この時、甲斐の武田家の重臣だった板垣信方の子孫であることを示すため、乾の姓を板垣に改めている。3月5日、板垣の軍は甲府城に入った。

近藤の部隊が甲府の手前で、新政府軍がすでに甲府城に入ったと知ったのは、その前後だった。後世の小説では、近藤らは多摩の故郷で歓迎を受けて酒宴を重ね、そのために遅れたと描かれてきた。子母沢寛の『新選組始末記』の描写が広めたものである。しかし日野の名主・佐藤彦五郎の日記によれば、部隊は近藤の生まれた上石原も、土方の生まれた日野も素通りし、江戸を出て3日目には甲斐に入っている。新政府軍の進軍が速かったことのほうが、遅れの大きな理由だったと考えられる。
土方は援軍を求めて江戸へ向かった。近藤は甲府の町奉行に手紙を送り、戦うつもりはないので新政府軍の進軍を止めてほしいと頼んだ。時間を稼ぐためだったとされる。部隊は勝沼の東の柏尾坂に陣を敷いた。永倉新八の回想では、この時の人数は馬丁を含めてわずか121人だった。陣の近くには古刹の大善寺があり、住職が寺を壊さないよう頼むと、近藤は生返事をした。それでも戦いでは寺に火をかけず、国宝の本堂は焼けずに残った、と寺に伝えられている。

3月6日の正午ごろ、旧幕府側の発砲で戦いが始まった。旧幕府側は徳川家から与えられた大砲6門のうち2門しか運んでおらず、砲弾の種類を取り違えるといった失敗もあった。新政府軍は兵の数でも火力でも上回り、谷干城の隊が背後に回ると、旧幕府側は三方から攻められた。午後2時ごろには戦いは終わり、近藤らは敗走した。
敗北は部隊を割った。江戸に戻った後、永倉新八と原田左之助は近藤と意見が合わずに離れ、別の隊を作った。近藤と土方は下総の流山で兵を集め直そうとしたが、4月、近藤は新政府軍に出頭し、慶応4年4月25日(1868年5月17日)に板橋で斬首された。土方はその後も会津、箱館と戦い続けた。

勝った新政府軍は、甲斐の人々から歓迎された。板垣が名将板垣信方の子孫と知ると、武田家の旧臣の子孫たちが協力を申し出て隊を作り、板垣の軍に加わった。新政府軍はそのまま江戸へ迫り、4月には江戸無血開城が実現する。いまも柏尾の甲州街道沿いには古戦場の碑が立っている。