できごと

ASEANの設立

ASEAN Declaration
AD1967年8月8日
重要度 3
ソビエト連邦中国オーストラリアインドイランインドネシアチベットパキスタンアフガニスタンビルマ大英帝国タイ日本パプアニューギニアベトナムオマーンマレーシアラオスフィリピンカンボジア朝鮮民主主義人民共和国ネパール大韓民国スリランカAD1967年8月8日バンコク
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1967年8月8日の版図を描いています(24勢力)。

概要

ベトナム戦争のさなかに5か国で始まった。争わないことを目的にした地域の集まりとして続く。

場所

バンコク
13.76°N 100.50°E · タイ

本文

1967年8月8日、バンコクのタイ外務省に5か国の外相が集まり、短い宣言に署名した。インドネシアのアダム・マリク、マレーシアのアブドゥル・ラザク、フィリピンのナルシソ・ラモス、シンガポールのラジャラトナム、タイのタナット・コーマン。東南アジア諸国連合、ASEANの始まりである。

署名の前には、海辺の保養地バンセーンで数日の話し合いがあった。外相たちは堅苦しい会議ではなく、ゴルフや食事の合間に言葉を交わし、合意の文案を詰めていったという。のちに、この打ち解けたやり方そのものがASEANの流儀だと語られるようになる。宣言は二枚ほどの短いものだった。

この5か国は、つい数年前まで互いに争っていた。マレーシアの成立に反対したインドネシアは、1963年から「対決」を掲げて国境で戦闘を仕掛けていた。シンガポールは1965年にマレーシアから切り離されたばかりで(シンガポールの独立)、フィリピンはボルネオ北部のサバをめぐってマレーシアと領有を争っていた。

シンガポールの独立に関わる図版:Agreement relating to the separation of Singapore from Malaysia as an independent and sovereign State
シンガポールの独立Wikimedia Commons The Government of Malaysia and the Government of Singapore . · Public domain

流れが変わったのは、インドネシアの政変だった。1965年の事件のあと(インドネシアの九・三〇事件)、スカルノに代わったスハルトの政権は対決をやめ、隣国との和解に動いた。一方、隣ではベトナム戦争が激しくなっていた(ベトナム戦争)。どの国の政府も、国内に共産主義の勢力を抱えていた。大国の争いに巻き込まれず、自分たちの足元を固めたい。その思いが5か国を一つの席に着かせた。

宣言が掲げたのは、経済と社会と文化の協力だった。軍事同盟ではない。統合でもない。最初の10年ほどは、目立った成果もほとんど無かった。首脳が初めて集まったのは、サイゴンが陥落した翌年の1976年、バリ島でのことである。ここで結ばれた東南アジア友好協力条約が、互いの主権と内政を尊重し、争いを武力によらずに解決することを定めた。

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Wikimedia Commons ASEAN · Public domain

決め方は、全会一致。話し合いを重ね、反対する国がいなくなるまで待つ。表立って隣国を非難しない。これらの作法は「ASEANウェイ」と呼ばれるようになった。1978年にベトナムがカンボジアに侵攻すると、ASEANはまとまってベトナム軍の撤退を求め、国際社会に訴えた。外に向かっては一つの声で話す力を、ここで身につけた。

冷戦が終わると、かつての対立陣営も加わった。1984年にブルネイ、1995年にベトナム、1997年にラオスとミャンマー、1999年にカンボジア。10か国、人口6億を超える地域になった。自由貿易地域が作られ、日本や中国、韓国を加えた会議の場も広がった。シンガポールのリー・クアンユーのような指導者は、この枠組みを小国が大国と渡り合うための道具として使った。

サラワク・レンジャーズ、マレーシア・タイ国境を警備。1964年までに東南アジアは地域紛争の危機にあった
サラワク・レンジャーズ、マレーシア・タイ国境を警備。1964年までに東南アジアは地域紛争の危機にあったWikimedia Commons W. SMITHER · Public domain

2008年には、それまで宣言の積み重ねだった集まりに、初めて法的な基礎となる憲章が作られた。2015年には、経済・政治安全保障・社会文化の三本の柱からなる「ASEAN共同体」の発足が宣言された。ただし、ヨーロッパ連合のような共通の通貨や、加盟国の上に立つ機関は持っていない。

弱点も、同じ作法から生まれる。全会一致では、一国が反対すれば何も決まらない。内政に口を出さないので、ミャンマーの軍政による弾圧のような問題にも、踏み込めないことが多かった。南シナ海をめぐる中国との争いでも、加盟国の立場が割れて共同声明が出せなかったことがある。

トゥン・アブドゥル・ラザクとアダム・マリクによるバンコク協定の調印(1966年8月11日)。対抗の終結がASEAN発足につながった
トゥン・アブドゥル・ラザクとアダム・マリクによるバンコク協定の調印(1966年8月11日)。対抗の終結がASEAN発足につながったWikimedia Commons National Archives of Indonesia · Public domain

タイとカンボジアの国境では、寺院の帰属などをめぐって死者の出る武力衝突が何度か起きている。2021年、ミャンマーで軍が政権を奪うと、ASEANは暴力の停止などを求める合意をまとめた。軍がそれを守らないため、首脳会議にはミャンマー軍の指導者を招かない措置が取られた。内政不干渉を掲げてきた集まりとしては、異例の対応である。

それでも半世紀を超えて、加盟国どうしが全面的な戦争に至ったことは無い。何かを成し遂げるためというより、争わないために作られた集まりが、いまも続いている。

動画(1)

【東南アジア②】ASEAN誕生の歴史、日本が知るべき東南アジア中田敦彦のYouTube大学 - NAKATA UNIVERSITY東南アジアシリーズの第2回。ASEANが生まれた経緯

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