リー・クアンユー
概要
資源の無い小島を、一世代で先進国にした。同時に、政治的な自由への制限を正当化し続けた。
関わったできごと(1)
シンガポールの独立AD1965年8月9日 · 初代首相本文
リー・クアンユーは1923年9月、イギリスの植民地だったシンガポールに生まれた。曽祖父の代に中国の広東から移ってきた客家系の華人の家で、家では英語が話された。シンガポールは、1819年にラッフルズのシンガポールで始まった、東西の航路の要の港町である。リーは英語の学校で優秀な成績を収め、地元の最高学府ラッフルズ・カレッジに進んだ。

その学業は、戦争で断ち切られた。1942年2月、日本軍がシンガポールを占領した(シンガポール陥落)。日本軍は華人の男たちを集めて抗日の疑いのある者を選び出し、多くを殺した。リーも選別の場に連れて行かれたが、隙を見て抜け出し、助かったと回想している。占領の3年半、彼は日本軍の報道部で英語の通信の翻訳などをして生き延びた。イギリスが守ってくれると信じていた植民地が、あっけなく落ちる。その経験が、自分たちの身は自分たちで守らなければならない、という生涯の信念を作ったと本人は語っている。
戦後、リーはイギリスのケンブリッジ大学で法律を学び、極めて優秀な成績で卒業した。同じく抜群の成績で法律を学んだクワ・ゲオクチューと結婚し、1950年に帰国すると、弁護士として労働組合の顧問を引き受け、政治の世界に入っていく。1954年、仲間とともに人民行動党を結成した。党は、英語教育を受けた中産層の知識人と、華語を話す労働者や学生に強い基盤を持つ共産党系の活動家との連合だった。

1959年、シンガポールがイギリスから自治を認められると、選挙に勝った人民行動党のリーが35歳で首相になった。やがて党内の共産党系は分かれて新党を作り、両者は激しく争う。1963年、植民地当局と隣のマラヤ連邦の協力のもと、左派の指導者ら100人以上が一斉に逮捕された。リーはこの摘発を後押しした。
リーは、小さな島だけでは国として成り立たないと考え、1963年、マラヤ、サバ、サラワクと合わせてマレーシアを作った。だが、マレー人を優遇する中央政府と、全ての民族の平等を唱えるリーの党は対立し、1964年には華人とマレー人の暴動が起きた。1965年8月、シンガポールはマレーシアから切り離される形で独立した(シンガポールの独立)。記者会見でリーは、これは自分にとって苦悩の瞬間だ、と言って涙をこらえきれなくなった。

新しい国には、何も無かった。面積は東京23区ほどで、天然の資源は無く、飲み水さえ対岸のマレーシアから買っていた。周りの国々からは警戒され、数年後にはイギリスの軍も撤退を決める。基地で働いていた人々の仕事も失われることになった。
リーの答えは、世界の企業を呼び込むことだった。当時、多くの新しい独立国は、外国の資本を植民地支配の続きと見て遠ざけた。リーは逆に、税を優遇し、工業団地を整え、労働争議を抑え込んで、欧米や日本の工場を招いた。港を広げ、空港を造り、のちには金融の中心として育てる。政府は国民に強制的に積み立てさせた資金で、大量の公営住宅を建て、国民に持ち家として売った(シンガポールの住宅開発庁)。家を持てば国に根を下ろす、という計算もあった。

言葉の政策も徹底していた。華人、マレー人、インド人が暮らす国で、どの民族の言葉でもない英語を、学校と行政の第一の言葉に定め、そのうえでそれぞれの民族の言葉を第二の言葉として学ばせた。華語で教えていた南洋大学は、英語で教える大学と統合され、華人社会には反発も強かった。
汚職は厳しく取り締まった。専門の捜査機関に強い権限を与え、閣僚であっても容赦しない。そのうえで、優秀な人材を民間に取られないよう、閣僚や公務員の給料を民間の高給と比べて決める仕組みを作った。シンガポールの閣僚の給料は、世界で最も高い水準になった。

一世代のうちに、シンガポールの一人あたりの所得は、旧宗主国のイギリスを上回るまでになった。1978年にシンガポールを訪れた中国の鄧小平は、その発展に強い印象を受け、のちの改革開放の手本の一つにしたといわれる。
その一方で、リーは政治の自由を厳しく制限した。裁判なしで人を拘束できる法律を使い続け、野党の政治家を名誉毀損の訴訟で次々に訴えて、多額の賠償で破産に追い込んだ。新聞は政府の許可のもとに置かれた。リーは、西洋の自由な民主主義がそのままアジアに合うとは限らない、社会の秩序と家族を重んじるアジアの価値観がある、と主張し、欧米の批判に正面から反論し続けた。

1990年、リーは31年務めた首相の座を退いたが、上級相、顧問相として内閣に残り、2004年には長男のリー・シェンロンが首相に就いた。2011年に内閣を去ったあとも、国の行く末について発言を続けた。2010年に妻を亡くし、2015年3月、91歳で死去した。独立から50年の年だった。国葬の日、雨の中を、何十万という人々が棺を見送った。
資源の無い小さな島を豊かな国にした指導者として、リーを手本と仰ぐ政治家は、アジアにもアフリカにも多い。同時に、豊かさと秩序のためなら自由を制限してもよいのか、という問いも、その名とともに残った。