ラムセス2世
概要
67年在位した新王国の象徴。カデシュでヒッタイトと戦い、のちに史上最古級の和平条約を結んだ。
所属
エジプト新王国関わったできごと(2)
カデシュの戦いBC1274年 · エジプト側 · 総指揮エジプト・ヒッタイト平和条約BC1259年 · エジプト側 · 締結本文
紀元前1303年頃に生まれたとされる。古代エジプトの年代にはいくつかの説があり、在位はおよそ紀元前1279年から前1213年とするのが一般的である。祖父ラムセス1世は王家の出ではなく、北部の軍人から王位に就いた人で、父セティ1世が新しい第19王朝の基盤を固めた。

父は若い息子を早くから政治と戦争に連れ出し、10代のうちに後継ぎとして共同統治者に近い地位に据えたとされる。共同統治だったかどうかには議論があるが、父の遠征に従軍した少年の姿は神殿の浮き彫りに残っている。20代の半ばで即位した。
67年在位した。90歳前後まで生きたとされる。古代エジプトの王の平均の寿命をはるかに超え、即位のときに生まれた子は、王より先に何人も死んだ。王位を最終的に継いだのは13番目の息子メルエンプタハで、そのときすでに60歳前後になっていた。

100人以上の子がいたと伝わる。神殿の壁には、息子と娘がそれぞれ数十人ずつ、名前とともに行列のように刻まれている。正妃ネフェルタリをはじめ多くの妃がいた。
即位して5年目の紀元前1274年、シリアの要衝カデシュをめぐって、アナトリアの大国ヒッタイトの王ムワタリ2世と戦った(カデシュの戦い)。エジプト軍は4つの軍団で北へ進んだが、捕らえた2人の遊牧民から、ヒッタイト軍はまだ遠くにいると聞かされ、それを信じた王は先頭の軍団だけで先行した。それは偽の情報で、ヒッタイトの大軍は町の陰に潜んでいた。後続の軍団は戦車隊の急襲を受けて崩れ、王の陣営まで攻め込まれた。

エジプト側の記録によれば、王は神アメンに祈り、自ら戦車を駆って敵中に何度も突撃し、援軍が到着するまで持ちこたえた。翌日の戦いも決着がつかず、エジプト軍は引き揚げた。カデシュの町は落とせず、のちにヒッタイトはその南の地方まで勢力を広げている。
カデシュの戦いを引き分けながら、大勝利として神殿の壁に何度も彫らせた。アブ・シンベル、ラメセウム、カルナック、ルクソール、アビドスの神殿に、戦いの経過を語る詩と、王が一人で敵を蹴散らす巨大な場面が刻まれた。ヒッタイトの都の跡から出た記録は、逆にヒッタイトの勝利として語っている。その記述が、彼の宣伝の巧みさの例として引かれる。現存する古代の戦いの中で、両軍の配置や動きがこれほど詳しく分かるものは珍しい。
一方で、16年後には和平条約を結んでいる。紀元前1259年頃、ヒッタイトの王ハットゥシリ3世との間で、互いに攻め込まないこと、第三国に攻められたら助け合うこと、逃げてきた者を送り返すことなどを定めた(エジプト・ヒッタイト平和条約)。エジプト側では神殿の壁に象形文字で、ヒッタイト側では当時の国際語アッカド語で粘土板に記され、両方が残っている。史上最古級の和平条約とされ、ニューヨークの国連本部にはその粘土板の複製が掲げられている。戦い続けない判断もしている。13年後には、ヒッタイトの王女を妃に迎えた。

建てた記念物の量が突出している。ヌビアの崖を掘り抜いたアブ・シンベル神殿の正面には、高さ20メートルを超える王の座像が4体並ぶ。隣には、ネフェルタリのための小神殿がある。テーベの西岸には葬祭殿ラメセウムを建て、ナイル・デルタの東には新しい都ペル・ラメセスを築いた。そして各地の既存の神殿に自分の名を刻ませた。前の王の像に自分の名を彫り直したものもある。
アブ・シンベル神殿は1960年代、アスワン・ハイ・ダムの建設で水没の危機にさらされた。ユネスコの呼びかけで各国が協力し、神殿を千あまりの石の塊に切り分けて、60メートルほど高い場所に組み立て直した。この救済が、のちの世界遺産条約が生まれるきっかけの一つになっている。

紀元前1213年頃に死に、王家の谷に葬られた。墓は早くに盗掘され、ミイラは神官たちによって何度か移されたあと、デイル・エル・バハリの隠し場所に他の王たちとともに納められた。1881年にそこで見つかっている。ミイラの調査では、関節炎や歯の病気、動脈の硬化に苦しんでいたことが分かった。
ミイラが残っており、1976年に、傷みの原因となっていた菌を除く処置のためパリへ運ばれた。入国にあたって、エジプト政府がパスポートを発行した。職業欄は「王(故人)」だったと伝わる。空港では儀仗兵が国家元首の礼で迎えたとされる。

旧約聖書の出エジプト記に出てくるファラオに擬せられることが多い(出エジプト(伝承))。だが聖書は王の名を記しておらず、それを裏づける証拠は無い。エジプト側の記録には、イスラエルの民の脱出を思わせる出来事は見当たらない。「イスラエル」という名がエジプトの記録に初めて現れるのは、跡を継いだ息子メルエンプタハの戦勝碑である。ラメセウムの倒れた巨像は、19世紀のイギリスの詩人シェリーの詩「オジマンディアス」の着想の源になったとされる。王の名の一つのギリシア語風の呼び方である。王の中の王を名乗った像が、砂の中で崩れている、という詩である。