人物

佐々成政

Sassa Narimasa
1536年頃 – AD1588年7月7日(享年52・推定)
織田政権重要度 2

概要

信長の黒母衣衆筆頭から越中の国主となった武将。秀吉に抗い「さらさら越え」の伝説を残し、肥後で失脚して切腹した。

本文

佐々成政は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将である。通称は内蔵助。織田信長の馬廻から身を起こして越中一国の主となり、信長の死後は豊臣秀吉に最後まで逆らった。真冬の北アルプスを越えて徳川家康に会いに行ったという「さらさら越え」の話で知られるが、最期は肥後の一揆の責任を問われて切腹した。

尾張国春日井郡の比良城(現在の名古屋市西区)を本拠とした土豪、佐々成宗の子として生まれた。生年は天文5年(1536年)頃とみられている。兄たちが稲生の戦いや桶狭間の戦いで相次いで討ち死にしたため、永禄3年(1560年)に家督を継いだ。翌年の美濃の森部の戦いでは、敵将を討ち取る手柄を立てている。永禄10年(1567年)頃には、信長の馬廻から選ばれた精鋭である黒母衣衆の筆頭になった。

桶狭間の戦いに関わる図版:Bishū Okehazama-gassen
桶狭間の戦いWikimedia Commons Utagawa Toyonobu · Public domain

その後も信長の主な戦いに加わり、天正3年(1575年)の長篠の戦いでは前田利家らと鉄砲隊を指揮したとされる。同じ年、越前を平定した信長は柴田勝家を北陸の軍団長とし、成政は利家・不破光治とともに府中の2郡を預かった。三人は「府中三人衆」と呼ばれ、勝家を補佐しながら上杉方や一向一揆と戦った。天正9年(1581年)頃には越中の富山城に入り、翌年には越中一国を任された。洪水を繰り返す常願寺川には堤を築き、これは「佐々堤」の名で伝わる。

天正10年(1582年)6月、上杉方の魚津城を落とした直後に本能寺の変が起きた。北陸の諸将が自領へ引き揚げると上杉勢が反撃に出て、成政は越中から動けなくなった。信長の後継をめぐって勝家と秀吉が対立すると、成政は勝家についた。翌年の賤ヶ岳の戦いには越中を離れられず援軍を送るにとどまり、勝家が滅ぶと剃髪して秀吉に降り、越中を安堵された。

本能寺の変に関わる図版:Honnoj
本能寺の変Wikimedia Commons Nobukazu Yōsai · Public domain

天正12年(1584年)、徳川家康と織田信雄が秀吉と戦った小牧・長久手の戦いが起きると、成政は家康方に転じた。加賀・能登を領する前田利家の末森城を大軍で囲んだが、駆けつけた利家に背後を突かれて敗れた。加賀と越中の国境の松根城は、このとき佐々方の最前線として大きく改修され、城の中を通る街道を大きな堀切で断ち切った跡が発掘調査で見つかっている。

やがて秀吉と信雄が和睦し、家康も兵を引いた。成政は家康に戦いの再開を促すため、冬の立山連峰を越えて信濃へ出て、遠江の浜松まで家康を訪ねたという。これが「さらさら越え」である。ただし、どの道を通ったかははっきりせず、針ノ木峠を越えたとする通説のほか、飛騨回りや越後回りの説もある。話は江戸時代の『太閤記』や地元の書物で大きく脚色されており、どこまでが事実かは分からない。家康の説得には失敗し、成政は越中へ戻った。

天正13年(1585年)、秀吉はみずから大軍を率いて越中に攻め込み、富山城を囲んだ。成政は信雄の仲立ちで降伏し、命は助けられたが、領地の大半を取り上げられ、大坂で秀吉の御伽衆として仕えることになった。

天正15年(1587年)、秀吉の天下統一の総仕上げの一つである九州平定に従った成政は、肥後一国を与えられた。だが入国してまもなく、国人の隈部親永らが検地などに反発して蜂起し、一揆は肥後全体に広がった。成政は自力で鎮めることができず、周辺の大名の兵によってようやく収まった。翌年、謝罪のため大坂へ向かったが、秀吉は会わず、摂津の尼崎に留め置かれたのち、天正16年閏5月14日(1588年7月7日)、切腹を命じられた。53歳とする説が有力である。一揆の原因を成政の強引な検地に求める見方が長く通説だったが、近年は九州の領地の分け方そのものへの国人の不満や、一揆を鎮められなかったことの責任を問われたとみる説も出ている。

成政には、側室の早百合を嫉妬から殺し、その呪いで家が滅んだという「黒百合伝説」など、真偽の分からない話が多い。一方で、武勇の士を好んで約束より多い知行で召し抱えたという話や、金の三階菅笠を馬印に用いたことも知られる。小田原攻めで蒲生氏郷がこの馬印の使用を願ったとき、秀吉は「武勇で聞こえた成政の馬印だ」として簡単には許さなかったという。最後まで秀吉に屈しきらなかった武将として、富山ではいまも祭りなどで顕彰されている。

動画(1)

佐々成政の隠れた名城【松根城】前田利家も警戒した!?その城に込めた成政の戦略とは?世界の戦術戦略非株式会社いつかやる前田利家と対峙した国境の松根城を歩き成政の戦略を探る
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