蒲生氏郷
概要
信長の娘婿で、豊臣政権下で会津92万石の大名となった武将。若松の城と城下を築き、茶人・キリシタンでもあった。
本文
蒲生氏郷は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将である。近江の日野に生まれ、伊勢の松坂を経て、最後は陸奥の会津で90万石を超える大名となった。黒川の町を若松と改めて城と城下を築き、のちの会津の繁栄の基礎を作った。千利休に学んだ茶人であり、洗礼名をレオンというキリシタン大名でもあった。
弘治2年(1556年)、近江国蒲生郡日野で、南近江の守護六角氏の重臣、蒲生賢秀の子として生まれた。幼名は鶴千代。永禄11年(1568年)、織田信長が六角氏を破ると、父は鶴千代を人質に差し出して信長に従った。信長は少年の目の光を見て「ただ者ではない、婿にしよう」と言ったと伝えられる。翌年、14歳で伊勢の大河内城攻めに初陣を飾り、信長の次女を妻に迎えて日野に帰った。この妻は冬姫の名で知られるが、実名は分かっていない。
その後は信長の戦いの多くに加わった。姉川の戦い、伊勢長島の一向一揆攻め、長篠の戦い、有岡城攻め、伊賀攻めなどに従軍して手柄を立てている。天正10年(1582年)に本能寺の変が起きると、安土城にいた父と連絡を取って城中の信長の妻子を保護し、日野城に移して明智光秀に従わない構えを見せた。光秀はまもなく山崎の戦いで敗れ、氏郷はこの年に家督を継いだ。

信長の死後は豊臣秀吉に従った。賤ヶ岳の戦いでは北伊勢の諸城を攻め、小牧・長久手の戦いでも伊勢方面で戦い、戦後に伊勢の松ヶ島12万石を与えられた。このころ大坂でキリスト教の洗礼を受けている。天正16年(1588年)には新たに松坂城を築き、松ヶ島の武士や商人を移して城下町を作った。のちの松阪商人の町の始まりである。
天正18年(1590年)、秀吉が小田原の北条氏を滅ぼし、奥羽の大名の配置を改めると、氏郷は会津に移された。はじめ42万石、のちの検地と加増で92万石ともいう大領である。会津はもともと伊達政宗の領地で、氏郷の役目は、すきあらば動こうとする政宗を見張り、奥羽を押さえることにあった。氏郷は黒川城を七層の天守を持つ城に改め、町の名を故郷の日野の「若松の森」にちなんで若松とした。日野や松坂の商人を呼び寄せ、市を開いて楽市を行い、手工業を奨励した。翌年には葛西・大崎一揆や九戸政実の乱の鎮圧に出陣し、その間も政宗とは境界や一揆をめぐってたびたび対立した。
家臣を大事にした大名としての逸話が多い。月に一度家臣を集めて評定を開き、身分や禄に関わりなく自由に意見を言わせ、終わると自ら風呂を焚いてもてなしたという。知行と情けは車の両輪だと語ったとも伝えられる。新参の者には、銀の鯰尾の兜をかぶって先陣を駆ける者に負けるな、と励ましたが、その武者とは氏郷自身だった、という話もよく知られる。一方で、隊列を勝手に離れた家臣を軍紀違反として斬らせたとも伝わり、厳しい主君でもあった。いずれも後世の逸話集に拠るもので、どこまで事実かは分からない。
茶の湯では千利休に学び、利休の高弟「利休七哲」の一人に数えられる。利休が秀吉に切腹を命じられた後、その子の少庵をしばらく会津にかくまったとされ、若松城内に少庵が建てたと伝わる茶室「麟閣」はいまも残る。キリスト教では高山右近と親しく、会津の領民にも改宗を勧めたという。
文禄元年(1592年)、文禄・慶長の役のため肥前名護屋に出陣したが、陣中で体を壊した。いったん会津に帰ったのち京に上って養生し、秀吉も医師団をつけて治療させたが回復せず、文禄4年2月7日(1595年3月17日)、伏見の屋敷で没した。数え年で40歳。毒殺の噂も立ったが、主治医の記録に残る症状から、腸か肝臓の癌だったと推測されている。辞世として、限りがあれば風が吹かなくても花は散るものを、なぜ春の山風はこう気短に散らすのか、という意味の歌が伝わる。

家督は子の秀行が継いだが、家中が争って宇都宮へ移され、蒲生家はのちに跡継ぎが絶えて途絶えた。それでも氏郷が作った若松の城と城下は、江戸時代の会津藩に受け継がれた。会津若松市と松阪市は、いまも氏郷を縁にゆかりの都市として結びついている。