ヘンリー・キッシンジャー
概要
バイエルンのユダヤ人。15歳でニューヨークへ。ハーヴァード。ニクソンの補佐官と国務長官。1971年、パキスタンから秘密に北京へ。デタント。ベトナムの「名誉ある和平」でノーベル平和賞。カンボジア爆撃、チリのクーデター、東ティモール。100歳まで生きて、最後まで意見を聞かれた。
所属
アメリカ合衆国関わったできごと(1)
ニクソン訪中AD1972年2月21日 · 仕組んだ本文
1923年5月27日、ドイツ南部バイエルンの町フュルトで、ユダヤ人の家庭に生まれた。名はハインツ・アルフレート・キッシンガー。父は女子校の教師だった。少年時代はサッカーが好きだったが、ナチスが政権を取ると、ユダヤ人の子どもは公立の学校から追われ、競技場にも入れなくなった。父は職を失った。1938年8月、一家はドイツを逃れてニューヨークに移り住んだ。数か月後に水晶の夜の迫害が起き、残った親族の多くは、その後のホロコーストで殺された。

ニューヨークのワシントン・ハイツで、彼は「ヘンリー」となり、昼はひげ剃りブラシの工場で働き、夜は高校と大学に通った。会計士になるつもりだったという。1943年に陸軍に召集され、ドイツ語ができたことから防諜部隊に回された。占領したドイツの町クレーフェルトで、20代の兵士として町の行政を任されたこともある。祖国に戻った難民の青年は、そこでナチスの残党を追う側に立った。
戦後、復員兵の奨学金でハーヴァード大学に入った。卒業論文は400ページ近い大作で、これ以後、卒業論文の長さに上限が設けられたという話が伝わる。博士論文では、ナポレオン戦争後のウィーン会議で勢力の均衡によってヨーロッパに長い平和をもたらしたメッテルニヒとカースルレーを論じた。理想よりも力の釣り合いで秩序を保つという考えは、生涯の彼の外交の軸になった。1957年の『核兵器と外交政策』は、全面核戦争か無策かの二択ではなく、限られた戦争も想定すべきだと論じてベストセラーになり、彼を東部の政策論の世界の有名人にした。共和党のネルソン・ロックフェラーの顧問を長く務めた。

1969年1月、それまで批判していたリチャード・ニクソンに請われ、国家安全保障担当の大統領補佐官となった。二人は国務省を通さず、ソ連の大使ドブルイニンとの秘密の連絡路など、裏の経路で外交を動かした。ベトナムから名誉ある形で手を引くこと、ソ連と緊張を緩めること(デタント)、そして中国との関係を開くことが、二人の目標だった。
1971年7月、パキスタン訪問中に病気を装って姿を消し、ひそかに北京へ飛んで周恩来と会談した。翌年2月のニクソン訪中(ニクソン訪中)は、世界を驚かせた。1972年5月にはモスクワでソ連と核兵器の制限について合意した。冷戦の対立を三つの大国の釣り合いに組み替える外交で、彼はアメリカで最も有名な外交官になった。

その裏で、彼の外交は多くの人命を奪った。ベトナムとの交渉を有利にするため、1969年から中立国カンボジアへの秘密爆撃が始まり、のちにはカンボジアやラオスへの爆撃がさらに広がった。こうした爆撃がカンボジアの社会を揺るがし、後のカンボジアの大量虐殺を起こすクメール・ルージュの台頭を助けた、とする研究者は多い。1970年、チリで社会主義者アジェンデが選挙で大統領に選ばれると、彼はその政権を揺さぶる工作を進め、国民が無責任にも共産主義者を選んだからといって、手をこまねいて見ている理由はないと発言したとされる。1973年のクーデター(チリのクーデター)にアメリカがどこまで関わったかは議論が続いているが、その後の軍事政権を支えたことは確かである。1971年、東パキスタン(のちのバングラデシュの独立)でパキスタン軍が住民を虐殺したときも、中国との仲介役だったパキスタンの政権に肩入れした。
1973年1月、北ベトナムのレ・ドゥク・トとのパリでの交渉がまとまり、アメリカ軍はベトナムから撤退した(ベトナム戦争)。この年のノーベル平和賞は二人に贈られたが、レ・ドゥク・トは、まだ平和は来ていないとして受賞を辞退した。戦争はその後も続き、1975年に南ベトナムは崩壊した。同じ年、彼は国務長官も兼ねた。10月に第四次中東戦争が起きると、イスラエルとエジプト、シリアのあいだを飛行機で往復する「シャトル外交」で停戦と兵力の引き離しをまとめ、エジプトをアメリカの側に引き寄せた。ウォーターゲート事件でニクソンが辞任した後も、フォード政権で国務長官を続けた。1975年12月、インドネシアのスハルトが東ティモールに侵攻する前日、フォードとともにジャカルタで会い、侵攻を事実上黙認したことが、のちに公開された文書で明らかになっている。

1977年に政府を離れると、コンサルタント会社を開き、各国の政府や企業に助言して巨額の収入を得た。中国には生涯で100回を超えて訪れたと言われる。著書『外交』や『世界秩序』で国際関係の歴史と理論を語り、90代後半には人工知能が世界をどう変えるかを論じる本まで共著で出した。一方で、ジャーナリストのヒッチェンズは彼を戦争犯罪で裁くべきだと告発する本を書き、海外の裁判所から証人として呼ばれても応じない彼の姿は、たびたび報じられた。
2023年5月に100歳を迎え、7月には北京で習近平と会談した。11月29日、コネティカット州の自宅で亡くなった。死を伝える記事には、冷戦の秩序を組み替えた現実主義の巨人という評価と、数多くの命を犠牲にした冷酷な権力者という告発とが並んだ。力の均衡を信じ、そのためには小国の人々の犠牲もやむをえないと考えた外交官は、その考えの正しさを最後まで疑われながら、最後まで意見を求められ続けた。