堺事件
概要
1868年、堺の警備にあたる土佐藩兵がフランス水兵11人を殺傷。藩士20人に切腹が命じられ、11人目で中止された。
場所
34.57°N 135.48°E · 大阪府
関わった人(1)
岩倉具視1825年–1883年 · 処罰する人数を減らすよう求めた本文
慶応4年2月15日(1868年3月8日)、和泉国の堺の港で、警備にあたっていた土佐藩の兵がフランス海軍の水兵に発砲し、11人を死なせた。新政府はフランスの要求をのみ、発砲した藩士20人に切腹を命じたが、堺の妙国寺での切腹は11人目で中止された。明治維新の直前に相次いだ外国人との衝突のなかで、双方に最も多くの死者を出した事件である。
鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗れると、大坂の町奉行所は事実上崩れ、堺の治安を守る者がいなくなった。新政府は土佐藩に堺の警備を命じ、正月に箕浦猪之吉の率いる六番隊が、2月には西村佐平次の率いる八番隊が入った。同じ正月には神戸で岡山藩の兵が外国人と衝突する神戸事件が起きており、藩兵の間には攘夷の気分が根強かった。

2月15日、フランスのコルベット艦デュプレクス号が、兵庫の副領事らを迎えるため堺の港に入り、港内の測量を行った。その間に士官以下数十人の水兵が上陸して町を歩き回った。住民の苦情を受けた土佐藩兵は帰艦を促したが言葉が通じず、捕らえようとしたところ、水兵が隊旗を奪って逃げようとしたため、藩兵が発砲したとされる。ただし経緯の説明は証言によって食い違い、フランス側は何もしていないのに突然撃たれたと主張した。この銃撃で水兵ら9人がその日のうちに、2人が翌日に死んだ。いずれも20代の若者だった。
フランス公使レオン・ロッシュは、発砲した者の処刑、15万ドルの賠償、皇族と土佐藩主の謝罪などを求めた。成立したばかりの新政府は、主力を東へ向けており、外国と戦える状態ではなかった。2月22日、政府はこれらの要求をすべて受け入れた。土佐藩の取り調べでは29人が発砲を認めたが、岩倉具視らは処罰の人数を減らすよう求め、隊長の箕浦・西村ら4人の指揮官と、くじで選ばれた16人の計20人を処刑することになった。くじは大坂の土佐稲荷神社で引かれたという。選ばれた藩士たちは、斬首ではなく武士としての切腹を求め、これが認められた。

2月23日(3月16日)、刑は堺の妙国寺で執行された。フランス軍艦の艦長デュ・プティ=トゥアールらが立ち会う中、藩士たちは次々と腹を切った。藩士たちは自らはらわたをつかみ出し、居並ぶフランス兵をにらんで大喝したと伝えられる。凄惨な光景が続き、11人が切腹したところで、艦長は中止を申し入れた。死んだフランス兵の数と同じになったところで止めたのである。残る9人は命を助けられ、土佐の西部へ流罪となったのち、恩赦で故郷に戻った。
政府間ではこれで決着がつき、翌日には山階宮晃親王がフランスの旗艦を訪ねて謝意を伝え、その翌日には土佐藩主の山内豊範も謝罪した。ロッシュはその後、明治天皇に謁見した。同じころ、イギリス公使パークスが参内の途中で攘夷派に襲われる事件も起きており、新政府は外国との関係を壊さないよう、攘夷の動きを抑えることに追われた。
切腹した11人の墓は堺の宝珠院に置かれた。墓には「ご残念様」と参る市民が絶えず、生き残った9人は「ご命運様」と呼ばれたという。死んだフランス兵の碑は神戸の外国人墓地に建てられた。明治政府は外交への配慮から、11人をたたえる記念碑の建設を長く認めなかった。第一次世界大戦で日本とフランスが同じ連合国となった大正6年(1917年)、堺では両国の死者を合わせて弔う会が開かれた。高知県の人々の働きかけもあって、大正9年(1920年)には11人が靖国神社に合祀された。事件は森鷗外の小説「堺事件」(1914年)や、大岡昇平の『堺港攘夷始末』にも描かれた。鷗外が藩士の側から描いたのに対し、大岡は史料を洗い直してその描き方を批判しており、事件の受け止め方そのものが議論の的になってきた。