臼井六郎の仇討ち
概要
1880年、元秋月藩士の臼井六郎が両親を殺した一瀬直久を東京で討った。仇討禁止令の後で、日本最後の仇討ちとされる。
場所
35.68°N 139.77°E · 日本・東京都
本文
明治13年(1880年)12月17日、東京・京橋の旧秋月藩主黒田家の屋敷で、臼井六郎という23歳の青年が、元秋月藩士で東京上等裁判所の判事となっていた一瀬直久を短刀で刺し殺した。12年前に両親を殺された仇を討ったのである。仇討ちはすでに法律で禁じられており、これが日本で最後の仇討ちとされる。
六郎は安政5年(1858年)、筑前の秋月藩(福岡藩の支藩)の家老・臼井亘理の長男として生まれた。幕末の秋月藩では、開明派と攘夷派が激しく対立していた。亘理は開明派の中心人物だったが、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗れると、藩内の形勢は攘夷派に傾いた。慶応4年(1868年)5月23日の深夜、攘夷派の干城隊の者たちが臼井家に押し入り、寝ていた亘理と妻の清子を殺した。亘理の首は持ち去られた。別室で寝ていた11歳の六郎は難を逃れた。
藩の裁定は、襲った側を「忠誠の士」として罪に問わず、殺された亘理のほうを、才を誇り国を思う心が薄かったとして家禄を減らすというものだった。臼井家は逆に罪人のように扱われた。やがて六郎は、学友が兄の山本克己(のちの一瀬直久)が亘理を斬ったと自慢しているのを耳にし、仇の名を知った。養父となった叔父は軽はずみな行動を戒め、まず文武を学べと諭した。六郎は武術と学問に打ち込みながら、機会を待った。
時代は急速に変わった。明治4年(1871年)の廃藩置県で藩はなくなり、明治6年(1873年)2月7日、政府は太政官布告第37号でいわゆる仇討禁止令を出した。以後、仇討ちはただの殺人として裁かれることになった。一方の一瀬は新政府に出仕し、各地の裁判所に勤めていた。六郎は明治9年(1876年)に上京し、剣客として知られた山岡鉄舟の書生となって剣を学びながら、一瀬の行方を追った。甲府の裁判所にいると聞いて二度訪ねたが、討つ機会はなかった。

その間、秋月では明治9年(1876年)10月、不平士族が兵を挙げる秋月の乱が起き、首謀者には干城隊の幹部たちがいた。乱はすぐに鎮圧された。六郎は旅費を稼ぐために熊谷の裁判所で雇員として働きながら、一瀬の転勤を追い続けた。酒色にふけるふりをして周囲に仇討ちの意図を悟らせないようにしていたという話も、当時を知る人の証言として森鷗外の紀行文に書き留められている。
明治13年、一瀬が東京上等裁判所に移ったことを知った六郎は、討ち損じたときのために復讐の理由を書いた書面を肌身につけ、裁判所の門前を見張った。12月17日、一瀬が旧藩主の屋敷に碁を打ちに来ることがあると思い出した六郎は、京橋区三十間堀(現在の銀座6丁目あたり)の黒田邸を訪ねた。そこへ一瀬が現れた。六郎は階下で一瀬を待ち伏せ、「父の仇」と声をかけて組み合い、短刀でとどめを刺した。そのまま人力車で京橋警察署に向かい、自首した。
新聞はこの事件を大きく報じ、世間の多くは六郎に同情した。本や講談、芝居にもなった。しかし法の上では謀殺であり、翌明治14年(1881年)9月22日、六郎は終身禁獄の判決を受けた。本来なら死刑にあたるところ、士族への特例で減じられたものである。獄中では模範囚として過ごし、自由民権運動で投獄されていた河野広中らから詩文を学んだという。明治22年(1889年)の大日本帝国憲法の発布に伴う大赦で刑が減じられ、明治24年(1891年)9月22日に釈放された。

秋月では事件の後、人々の見方が一変したと伝えられる。一瀬の父は自殺し、母の仇とされた萩谷伝之進は精神を病んで死んだという。山岡鉄舟は、人を殺す術は教えたが法を犯してまで殺せとは教えていない、と語ったと伝えられ、勝海舟も六郎の身を案じていた。六郎自身は出獄後に結婚し、門司や鳥栖で暮らして、大正6年(1917年)に病で世を去った。
江戸時代であれば武士の誉れとされた行いが、わずか十数年の違いで犯罪として裁かれた。臼井六郎の仇討ちは、武士の倫理と近代国家の法が正面からぶつかった事件として記憶されている。