ウラルトゥの興り
概要
ヴァン湖のほとりに、アッシリアの北の敵が国を建てた。山の民が石を積んで要塞と水路を作り、200年アッシリアと押し合う。アルメニア人の土地の前史になる。
場所
38.50°N 43.34°E · トルコ・ヴァン県
本文
トルコの東の端、標高1600メートルを超える高原に、ヴァン湖という大きな塩の湖がある。冬は長く雪に閉ざされ、まわりを高い山々が囲む。紀元前9世紀、この湖のほとりに、ウラルトゥという王国が興った。
その名は、まず南の強国アッシリアの記録に現れる。紀元前13世紀には、アッシリアの王が北の山地の「ウルアトリ」の国々と戦ったと記している。まだ小さな国々の寄り合いにすぎなかった。紀元前9世紀の半ば、アッシリアのシャルマネセル3世が北へ遠征したとき、相手は「ウラルトゥの王アラメ」に率いられた一つの国になっていた。北の山の民は、南の大国の圧力を受けて、まとまっていったのである。

紀元前9世紀の後半、サルドゥリ1世が、ヴァン湖の東岸にそそり立つ岩山に城を築いた。トゥシュパである。岩山の麓には巨大な石を積んだ壁を築き、そこにアッシリアの言葉と文字で碑文を刻んだ。自らを「偉大な王、全世界の王」と称している。アッシリアの王の称号を、そのまま借りたものだった。
次の王たちは、自分たちの言葉で碑文を刻むようになった。ウラルトゥの言葉は、北メソポタミアで話されていたフルリ語に近い言葉で、周りのどの言葉とも系統が違う。文字はアッシリアから借りた楔形文字を使った。国の神はハルディで、王たちは遠征のたびに、その神の名で勝利を記した。
ウラルトゥの王たちは、山の国を豊かにする工事に力を注いだ。メヌア王は、山の泉から数十キロにわたる水路を引いて、トゥシュパのまわりの畑と果樹園を潤した。石を積んで谷を渡すこの水路は、2800年たったいまも、一部が農地を潤している。王たちは岩山の上に要塞を築き、その中に大きな倉を置いて、穀物やぶどう酒を貯えた。ウラルトゥの金属の細工、とくに青銅の器や武具は、遠くギリシアやエトルリアにまで運ばれた。
国は北へ広がった。紀元前782年、アルギシュティ1世は、いまのアルメニアの首都エレバンの郊外にエレブニという要塞を築き、その創建を刻んだ石が残っている。エレバンの町は、この年を自分たちの生まれた年としている。

紀元前8世紀の前半、ウラルトゥは最も強くなった。アッシリアが内輪もめで弱っている間に、北シリアの国々を味方につけ、アッシリアの北の交易路を押さえた。だが紀元前743年、アッシリアのティグラト・ピレセル3世に大敗し、流れが変わる。紀元前714年には、サルゴン2世が大軍を率いてウラルトゥに攻め込み、国の聖地ムサシルにあったハルディの神殿を略奪した。サルゴン2世は、奪った金や銀や青銅の品々の目録を、神アッシュルへの報告の手紙の形で長々と書き残している。同じころ、北から来たキンメリア人も、ウラルトゥの軍を打ち破った(キンメリア人のゴルディオン破壊)。
それでもウラルトゥは滅びなかった。紀元前7世紀には、ルサ2世のもとで新しい要塞の町がいくつも築かれた。アッシリアとの間にも落ち着いた関係が生まれた。旧約聖書の列王記は、アッシリアの王センナケリブを殺した息子たちが「アララトの地」に逃れたと書いている(センナケリブのバビロン破壊)。アララトは、ウラルトゥをヘブライ語で写した名である。ノアの箱舟がたどり着いた「アララトの山々」も、もとはこの国の山々を指していた。

ウラルトゥの終わりは、はっきりしない。紀元前7世紀の終わりから6世紀の初めにかけて、要塞の町は次々に焼かれた。焼け跡からは、スキタイ風の矢じりが見つかっている(スキタイの騎馬遊牧)。東のメディアに呑まれたとする説が有力だが、確かな記録は無い(メディア王国とエクバタナ)。
紀元前6世紀の終わり、ペルシアのダレイオス1世がベヒストゥーンの岩壁に刻んだ碑文は、同じ文を三つの言葉で記している。そのうち古代ペルシア語の文で「アルミナ」と書かれた土地を、バビロニア語の文は「ウラルトゥ」と書いている。ウラルトゥの土地は、このころにはアルメニアと呼ばれていた。アルメニア人がいつ、どこからこの土地に来たのか、ウラルトゥの人びととどう混ざり合ったのかは、いまも議論が続いている。アルメニアはのちに、世界で最初にキリスト教を国の宗教とした国になる(アルメニアのキリスト教国教化)。