できごと

カルカルの戦い

Battle of Qarqar
BC853年
重要度 3
カルカルの戦いに関わる図版:Karkar
Karkar Wikimedia Commons Yuber · Public domain

概要

アッシリアの西進を、シリアとイスラエルの12の王が連合して止めた。イスラエル王アハブが戦車2000を出したと碑文にある。聖書に出てこない、聖書の王の記録になる。

場所

カルカル位置は特定されていない(誤差 ±km)
35.46°N 36.43°E · シリア・ハマー県

関わった人(1)

シャルマネセル3世?–BC824年 · アッシリア王

本文

紀元前9世紀、メソポタミア北部のアッシリアは、再び外へ打って出る力を取り戻していた。王たちは毎年のように遠征を行い、従わない町を焼き、貢ぎ物を取り立て、その戦果を宮殿の浮彫りと碑文に誇らしげに刻んだ(新アッシリア帝国)。紀元前858年に即位したシャルマネセル3世は、ユーフラテス川を越えて西のシリアへ進むことを、治世の大きな目標にした。シリアには、地中海の港とエジプトへ通じる道があり、レバノン山脈の杉の木があった。

シリアとその南のパレスティナには、アラム人やフェニキア人、イスラエル人の小さな王国が並んでいた。ふだんは互いに争っている国々である。南のイスラエル王国は、イスラエル王国の分裂のあと、サマリアに新しい都を築いたオムリの王朝のもとで栄えていた(オムリのサマリア建設)。オムリの子アハブは、北のアラム人の国ダマスカスと何度も戦ってきた。しかしアッシリアが迫ってくると、これらの国々は手を結んだ。

シャルマネセル3世(浮彫、部分)
シャルマネセル3世Wikimedia Commons Osama Shukir Muhammed Amin FRCP(Glasg) · CC BY 4.0

紀元前853年、シャルマネセル3世の治世6年目、アッシリア軍はオロンテス川の流域に入り、ハマトの国のカルカルという町の近くで、連合軍とぶつかった。この戦いのことは、トルコ南東部のクルフで1861年に見つかった、王の姿を彫った石の碑に刻まれた碑文で知られる。碑はいま大英博物館にある。

碑文は、連合軍の顔ぶれと兵力を国ごとに書き上げている。ダマスカスの王ハダドエゼルは戦車1200、騎兵1200、歩兵2万。ハマトの王イルフレニは戦車700、騎兵700、歩兵1万。そして「イスラエルの人アハブ」が戦車2000、歩兵1万。ほかにフェニキアの町々や、「アラブ人ギンディブ」の駱駝1000頭などが並ぶ。歴史の記録に「アラブ」の名が現れるのは、これが最初とされる。碑文は「12の王」と書くが、実際に名前を挙げているのは11ほどで、数え方には議論がある。

カルカル遺跡の丘(テル)
カルカル遺跡の丘(テル)Wikimedia Commons User:PongoPygmaeus · Public domain

目を引くのは、アハブの戦車の数である。2000両は連合軍のなかで最も多く、ダマスカスを上回る。小国イスラエルにそれだけの戦車を持つ力が本当にあったのかを疑い、書き写しの誤りで、実際は200両だったのではないかとみる学者もいる。いずれにしても、アハブが連合軍の主な担い手の一人だったことは確かだろう。

結果について、碑文は大勝を誇る。敵の兵1万4千を殺し、死体で野を埋め、オロンテス川を死体でせき止めた、と書く。後に作られた碑文では、殺した数が2万5千、2万9千と、版を重ねるごとに膨らんでいく。だが、アッシリア軍はこのあと、さらに南へは進まなかった。ダマスカスもイスラエルも降伏していない。シャルマネセルはその後も紀元前849年、848年、845年と繰り返し西へ兵を出しているが、連合軍の前に決定的な勝利は得られなかった。実際には、連合軍がアッシリアを食い止めた戦いだったとみるのが普通である。

この戦いは、旧約聖書には出てこない。聖書のアハブは、フェニキアの王女イゼベルを妻に迎え、バアルの神を持ち込んだ悪い王として描かれ、預言者エリヤと激しく対立する(エリヤとカルメル山)。聖書はアハブがダマスカスの王と戦い、また和を結んだことを書くが、両者が肩を並べてアッシリアと戦ったことは記していない。聖書の筆者にとって、王の軍事的な成功は、信仰の正しさに比べて書くに値しないものだったのかもしれない。アッシリアの碑文は、そのアハブが、大国に立ち向かう連合の中心にいた王だったことを伝えている。聖書の王が、聖書の外の同時代の記録に現れる最も早い例の一つでもある。

エリヤとカルメル山に関わる図版:Leningrad-codex-09-kings
エリヤとカルメル山Wikimedia Commons Copied from Tiberian masoretic manuscripts. · Public domain

連合は長く続かなかった。アハブは聖書によれば、この少しあとにダマスカスとの戦いで死ぬ。紀元前841年、イスラエルで将軍イエフがクーデターでオムリの王家を滅ぼすと、イエフはアッシリアに貢ぎ物を差し出した。シャルマネセルは、その姿を自分の黒いオベリスクに刻ませている(シャルマネセル3世の黒いオベリスク)。それから100年あまりのちの紀元前722年、イスラエル王国はアッシリアに滅ぼされる(イスラエル王国の滅亡)。

同じ時代のできごと

エリヤとカルメル山BC860年頃ウラルトゥの興りBC860年頃メシャ碑BC840年頃イエフの反乱BC841年共和BC841年
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