タスマニアの孤立
概要
海面が上がって本土と切れ、数千人が1万年、誰とも会わずに暮らした。骨の釣り針も、そのあいだに使われなくなった。
場所
-42.00°N 146.60°E · オーストラリア・タスマニア州
本文
いまより海面がずっと低かった氷期には、オーストラリア大陸とニューギニア島、そして南のタスマニア島は、一つの大きな陸地としてつながっていた。サフルと呼ばれるこの陸地に、人は少なくとも5万年前には海を渡ってたどり着き(サフルへの渡海)、やがて南へ広がった。タスマニアの洞窟には、3万5000年ほど前に人が暮らした跡が残っている。当時のタスマニアは、氷河をいただく山と寒い草原の広がる、人の住む世界の最も南の端だった。
氷期が終わると、氷が溶けて海面が上がりはじめた。大陸とタスマニアのあいだの低い平原は少しずつ水に沈み、1万年から8000年ほど前までに、幅200キロを超えるバス海峡ができた。島に残された人びとは、それから約1万年のあいだ、外の誰とも出会うことなく暮らすことになる。ヨーロッパ人が来たときの人口は、数千人と推定されている(推計には3000人から1万人以上まで幅がある)。これほど長いあいだ、これほど完全に孤立して暮らし続けた人間の集団は、ほかに知られていない。

18世紀の終わりにやって来たヨーロッパの船乗りや探検家は、タスマニアの人びとの持ち物の少なさに驚いた。石の道具はあったが、柄をつけた斧や、骨を削って作る針や錐はなかった。網はあったが釣り針はなく、魚を食べようとしなかった。ブーメランも投槍器も、本土の人びとが持っていた多くの道具がなかった。寒い土地なのに縫った服はなく、体に動物の脂を塗り、カンガルーの毛皮を肩に掛けて暮らしていた。火を燃やし続けて運ぶことはできたが、新しく火を起こす方法は失っていた、という記録もある(ただし、火を起こしていたとする記録もあり、議論がある)。
奇妙なのは、昔からそうだったわけではないことだった。1960年代から70年代にかけて、考古学者のリース・ジョーンズらが島の北西の海岸の洞窟を発掘したところ、古い地層からは骨で作った錐や針と、たくさんの魚の骨が出てきた。ところが3500年ほど前を境に、骨の道具も魚の骨も、地層から消えてしまう。島の人びとは、かつて持っていた道具と食べ物を、孤立したあとで手放したことになる。

なぜそうなったのかは、まだ決着していない。一つの考えは、人の数が少なく、外との行き来がない社会では、技術が失われやすいというものである。ある道具を作れる人が病気や事故で死ねば、その技は誰にも伝わらずに消える。大勢の人が互いに教え合い、ほかの集団から学び直せる社会でなければ、技術は保てない。人類学者のジョセフ・ヘンリックは、こうした過程を数式のモデルで示した。別の考えでは、魚をやめたのは失ったのではなく選んだのだという。アザラシや貝や鳥のほうが、少ない手間で多くの食べ物を得られたのかもしれない。魚を食べることを禁じる信仰が生まれた可能性もある。
ジャレド・ダイアモンドは『銃・病原菌・鉄』の第15章で、この島を例に、技術は一度手に入れれば消えないものではなく、人口が小さく孤立した社会では失われることがある、と論じた(物語「『銃・病原菌・鉄』で読む歴史」)。同じように孤立した島で、まったく違う社会を作ったチャタム諸島の例(モリオリの征服)とともに、この本の大きな論点の一つになっている。ただ、その書き方には、タスマニアの人びとを「退化した」かのように描いているという批判もある。彼らは厳しい環境の中で1万年を生き抜き、島の生き物と季節を知り尽くし、本土の人びとと同じように岩に絵を刻み(オーストラリア先住民の岩絵)、葦を束ねた舟で沖の島々へも渡っていた。

孤立が終わったのは、1642年にオランダのタスマンが島を見つけたとき(タスマンのタスマニア・ニュージーランド到達)ではなく、その150年あまり後だった。1803年、イギリスは囚人を送り込んで植民地を開いた。入植者と羊が島の草原を奪い、1820年代には先住民との激しい戦いになった。「黒い戦争」と呼ばれる。持ち込まれた病気も、人びとの命を奪った。生き残った200人ほどは、1830年代に宣教師ジョージ・ロビンソンに説得されて、北のフリンダーズ島へ移されたが、そこでも病気と望郷の思いのなかで次々に死んでいった。
1876年、トルガニニという女性が死ぬと、植民地の人びとは「最後のタスマニア人」が死んだと言った。彼女の骨は掘り出されて博物館に展示され、本人の願いどおりに火葬されて海にまかれたのは、死から100年後の1976年のことである。しかし、タスマニアの先住民は絶えていない。島の北のバス海峡の島々では、アザラシ猟の男たちと先住民の女性たちのあいだに生まれた子孫が暮らし続けた。いま、2万人を超える人びとがタスマニアの先住民の子孫として名のり、失われた言葉を残された記録から組み立て直す取り組みを続けている。