プスセンネス1世
概要
第21王朝。タニス。46年統治した。1940年にピエール・モンテが墓を開けると、銀の棺、金の面、ラピスラズリの首飾りが手つかずで出た。「銀のファラオ」。ドイツ軍がパリに入る3か月前で、発見はほとんど報じられなかった。
関わったできごと(1)
タニスの王墓BC1000年頃 · 王本文
エジプト第21王朝の王で、本来の名はパセバカエンニウトという。「都(テーベ)に現れた星」という意味である。統治はおよそBC1047年からBC1001年まで、46年に及んだとされるが、年代には数十年の幅で別の説がある。

第21王朝の時代、エジプトは事実上二つに割れていた。新王国の最後のラムセス朝が衰えると、北のナイル・デルタでは王がタニスに都を置き、南のテーベではアメン神の大祭司が軍を握って上エジプトを治めた。プスセンネス1世は、そのテーベの大祭司ピネジェム1世の息子だった。南の祭司の家の子が北の王になったことで、二つの勢力は血でつながり、対立よりも共存に向かった。王は自分の姉妹のムトネジメトを妃とした。
プスセンネス1世は、タニスに大きなアメン神殿を建て、その周りを日干しれんがの巨大な壁で囲んだ。神殿の石材や像の多くは、新しく切り出したものではなく、東へ約20キロのところにあったラムセス2世の都ペル・ラメセスから運ばれてきた。ナイルの支流の流れが変わってペル・ラメセスが港として使えなくなり、王たちは古い都を石切り場として使ったのである。タニスのオベリスクや巨像にはラムセス2世の名が刻まれたまま残り、そのため近代の考古学者は長く、タニスこそがペル・ラメセスだと考えた。実際の場所が南のカンティールだと分かるのは、20世紀の後半になってからである。

彼の墓は、神殿の囲いの中に石で造られた。王家の谷のような岩窟墓ではなく、神殿の敷地に王墓を置くのは、この時代のデルタの王たちのやり方だった。のちの王たちもここに葬られ、プスセンネス1世の墓には息子のアメンエムオペトや将軍ウェンジェバウエンジェドも納められた。
1939年、フランスの考古学者ピエール・モンテは、タニスの神殿の一角で王墓の群れを掘り当てた(タニスの王墓)。最初に開けたのは第22王朝のシェションク2世の棺で、鷹の頭をかたどった銀の棺が現れた。そして1940年2月、手つかずのまま残っていたプスセンネス1世の墓室が開かれた。

棺は何重にもなっていた。いちばん外側の赤い花崗岩の石棺は、もとは第19王朝のメルネプタハ王のために作られたもので、テーベの王家の谷から運ばれてきた再利用品だった。その中に黒い花崗岩の人型の棺があり、これも前の時代の高官のものの転用だった。さらにその中から、全身を銀で作った人型の棺が現れた。王の顔には金の面がかぶせられ、胸にはラピスラズリと金の重い首飾りと胸飾りが幾重にもかけられていた。エジプトでは銀は国内でほとんど採れず、金より貴重とされた時期もある。「銀のファラオ」と呼ばれるのはこのためである。
ツタンカーメン王墓の発見以来の、盗掘を免れた王墓の発見だった。ところが時期が悪かった。第二次世界大戦はすでに始まっており、3か月あまり後の1940年6月にはドイツ軍がパリに入る。発見は世界の新聞にほとんど取り上げられず、モンテは戦時下で発掘を続けながら、財宝の多くをカイロに送った。ツタンカーメンの名は誰もが知っているのに、プスセンネス1世の名がほとんど知られていないのは、この偶然によるところが大きい。財宝はカイロのエジプト博物館に収められた。

ツタンカーメンと違って、王のミイラはほとんど残っていなかった。デルタの湿った土地では地下水が墓に染み込み、遺体は骨だけになっていたのである。骨を調べた研究では、王は高齢まで生き、背骨の関節炎や歯の膿瘍に苦しんでいたとみられている。46年という長い治世とも矛盾しない。
タニスは旧約聖書では「ツォアン」と呼ばれ、民数記には、ヘブロンの町はエジプトのツォアンより7年前に建てられた、という一節がある。プスセンネス1世の時代は、伝承上のイスラエルの王ダビデの時代とほぼ重なる。映画『レイダース 失われたアーク』は、1936年のタニスで契約の箱が掘り出される筋書きにした。現実のタニスで同じ頃に掘られていたのは、モンテの発掘隊であり、出てきたのは箱ではなく、銀の棺に眠る一人の王だった。