ラングーン事件
概要
ビルマを訪れた韓国の全斗煥大統領を狙い、北朝鮮の工作員がアウンサン廟で爆弾を爆発させた。閣僚ら21人が死んだ。
場所
16.84°N 96.17°E · ミャンマー
関わった人(1)
全斗煥AD1931年1月18日–AD2021年11月23日 · 暗殺の標的となった韓国大統領本文
1983年10月、韓国の大統領全斗煥は、南アジアとオセアニアの国々を回る外遊に出た。最初の訪問国がビルマ(今のミャンマー)だった。ビルマは東西どちらの陣営にも属さない中立の国で、韓国とも北朝鮮とも国交を持っていた。朝鮮戦争が休戦してから30年、南北は互いに相手を倒すべき敵とみなし、北朝鮮はそれまでにも韓国の大統領を狙う工作を繰り返していた。
全斗煥は軍人出身で、1979年に朴正煕大統領が暗殺された後の混乱のなかで軍の実権を握り、翌1980年に大統領となった。光州での民主化運動を武力で鎮めたことから国内には強い反発があったが、北朝鮮にとっては、何よりも倒すべき南の指導者だった。1968年には北朝鮮の部隊がソウルの大統領官邸を襲おうとし、1974年には朴正煕の暗殺を狙った銃撃で大統領夫人が死んでいる。外遊先での警護は国内より手薄になる。ビルマの訪問は、そこを突かれた。

10月9日の朝、全斗煥は首都ラングーン(今のヤンゴン)のアウンサン廟に花輪を捧げる予定だった。アウンサン廟は、ビルマ独立の指導者で1947年に暗殺されたアウンサンらを祀る霊廟である。大統領の到着を前に、副首相や外相をはじめとする随員が廟に並んでいた。そのとき、屋根に仕掛けられていた爆弾が爆発し、建物は崩れ落ちた。
全斗煥自身は、乗った車が遅れていたため、まだ廟に着いていなかった。到着の合図のラッパが予定より早く鳴ったため、犯人は大統領が来たと思って起爆したとされる。爆発で21人が死に、46人が傷ついた。死者のうち17人は韓国人で、徐錫俊副首相、李範錫外相ら4人の閣僚、大統領の秘書官、駐ビルマ大使、記者らが含まれていた。残る4人は取材に来ていたビルマの記者らだった。

ビルマの警察は、まもなく3人の容疑者を追い詰めた。いずれも北朝鮮の軍人で、ラングーンの港に停泊した北朝鮮の船から上陸し、北朝鮮の大使館で爆発物を受け取っていた。一人は追っ手との撃ち合いで死に、残る二人は手榴弾で自爆を図ったが生き残って捕らえられた。裁判では二人とも死刑を言い渡された。一人は最後まで口を割らずに処刑され、自白したカン・ミンチョルは終身刑に減じられたが、北朝鮮は彼を自国民と認めず、彼は25年近く獄中で過ごして2008年に死んだ。
ビルマ政府は北朝鮮の犯行と断定し、11月に北朝鮮との国交を断った。国交が戻ったのは2007年のことである。北朝鮮の友好国である中国も、直前に北朝鮮から南北と米国の三者協議の提案を取り次いでいたこともあって不快感を示したとされる。北朝鮮は関与を一貫して否定した。
韓国では報復を求める声も上がったが、全斗煥政権は軍事的な報復には踏み切らなかった。外交の場で北朝鮮の孤立を図る道を選び、それが1988年のソウル五輪の開催へとつながっていく。しかし北朝鮮の爆弾工作はこれで終わらなかった。4年後には、五輪を前にした韓国の旅客機が空中で爆破される大韓航空機爆破事件が起きる。二つの事件は、北朝鮮が国家としてテロを行う国とみなされる根拠として、のちの国連の場でも並べて取り上げられた。
失われた閣僚や側近の中には、韓国の経済政策を担っていた人々が多く含まれていた。とくに経済首席秘書官の金在益は、物価の安定と市場の開放を進めた中心人物で、その死は韓国の経済運営にとって大きな痛手とされた。ヤンゴンの廟の跡には、のちに犠牲者を悼む碑が建てられている。
犯人たちが乗ってきた船や爆発物の受け渡しの経路が明らかになったことで、この事件は、一国の政府が外国の地で他国の元首の暗殺を企てた例として国際社会に強い印象を残した。中立を保ってきたビルマにとっても、自国の首都で他国どうしの争いの犠牲を出した苦い事件だった。