空母タイコンデロガの水爆水没事故
概要
米空母タイコンデロガから水爆を積んだ攻撃機が海に落ち、喜界島沖の深海に沈んだ。24年後に日本の近くだったと明かされた。
場所
27.55°N 131.32°E · 鹿児島県・喜界島の南東沖の公海
本文
物語「冷戦」のさなか、米国は核兵器を積んだ爆撃機や軍艦を世界中に配していた。核兵器を失ったり、誤って落としたりする事故は、軍の符丁で「ブロークン・アロー(折れた矢)」と呼ばれる。1950年代から60年代にかけて、米軍はこうした事故を何度も起こしている。キューバ危機で核戦争の瀬戸際を経験した後も、核を持ち歩く体制は変わらなかった。
翌1966年にはスペインのパロマレス上空で爆撃機と空中給油機が衝突し、4発の水爆が落ちた。そのうち1発は地中海に沈み、80日あまりの捜索の末にようやく引き上げられた。1968年にはグリーンランドのチューレ基地の近くで、水爆を積んだ爆撃機が氷の上に墜ちている。核兵器そのものが爆発した事故は無かったが、起爆装置の通常の爆薬が破裂して放射性物質をまき散らした例はあった。
1965年、米海軍の空母タイコンデロガは、ベトナム戦争の作戦に加わっていた。艦には攻撃機A-4スカイホークの飛行隊が載っており、その機体は核爆弾を積めるように作られていた。12月5日、フィリピンのスービック湾を出て1か月ほどたったころ、艦は訓練の最中だった。

その日、格納庫から昇降機へ押し出されていたA-4E攻撃機が、後ろ向きに艦の外へ転がり落ちた。機体には操縦士のダグラス・ウェブスター中尉が乗り、B43水素爆弾が積まれていた。B43はおよそ1メガトン、広島に落とされた原爆の数十倍にあたる威力を持つ。機体は海に沈み、操縦士も爆弾も引き上げられなかった。そこは水深約4900メートルの深海で、鹿児島県の喜界島からおよそ110キロの沖合だった。のちに見つかった米国の研究所の文書には、失われた核兵器は二つだったとするものもある。
米国はこの事故を長く伏せていた。後に公表された核兵器事故の一覧でも、場所は陸地から遠く離れた太平洋とされ、日本の近くだったことには触れていなかった。事故の後、タイコンデロガは日本の横須賀に寄港したとされる。日本政府は、米国が核兵器を日本に持ち込む場合には事前の協議が要るという立場をとっており、のちに佐藤栄作首相が「持たず、作らず、持ち込ませず」の非核三原則を掲げた。もし核を積んだ艦が日本の港に入っていたなら、その前提が揺らぐことになる。
事故の地点は公海の上で、日本の領海の外だった。それでも、1メガトンの水爆を積んだ艦が日本の島々のすぐ沖を通り、日本の港へ向かっていたという事実は、それまでの説明とはかけ離れていた。
事故の場所が明るみに出たのは、24年後の1989年である。米国の公文書を調べた環境団体や研究者の報告と報道によって、水爆が日本の島のすぐ近くに沈んでいることが知られた。日本では大きな驚きをもって受け止められ、政府は米国に詳しい説明を求めた。国会でも、海の汚染の心配と、核の持ち込みの有無が問われた。米国は、深い海の底にあり、爆発や汚染の危険は無いと説明した。
当時の沖縄はまだ米国の施政下にあり、日本に返されたのは1972年の沖縄返還のときである。核の持ち込みをめぐる日米の「密約」があったかどうかは長く議論され、2010年に日本政府の調査が、事実上の密約があったことを認めた。タイコンデロガの事故は、その議論のなかで、核兵器が実際に日本のすぐそばを行き来していたことを示す出来事として語られてきた。
沈んだ水爆と操縦士は、いまも喜界島沖の深海に眠っている。引き上げは行われておらず、その状態を確かめるすべも無い。冷戦の時代に失われ、見つかっていない核兵器は世界にいくつもあるとされ、これはその一つである。