板門店ポプラ事件
概要
板門店でポプラの枝を払う米兵2人が北朝鮮兵に斧で殺された。3日後、米韓軍は大兵力を見せつけて木を切り倒した。
場所
37.96°N 126.68°E · 朝鮮半島の軍事境界線上
関わった人(1)
朴正熙AD1917年11月14日–AD1979年10月26日 · 韓国の大統領。軍事行動による報復を望まなかった本文
1953年7月の朝鮮戦争の休戦で、朝鮮戦争の戦火は止まった。しかし平和の条約は結ばれず、朝鮮半島は軍事境界線と、その両側に広がる非武装地帯で南北に分けられたままになった。境界線の上にある板門店には、休戦の話し合いの場として共同警備区域が置かれた。区域の中を境界線が通っていたが、当時は国連軍の警備兵も北朝鮮軍の警備兵も、区域の中を行き来することができた。顔を突き合わせる距離にいる両軍のあいだでは、にらみ合いや小競り合いが絶えなかった。
区域の西寄り、境界線をまたぐ「帰らざる橋」の近くに、高さ30メートルほどのポプラの木が立っていた。夏には葉が茂り、国連軍の検問所と監視所のあいだの見通しをふさいだ。国連軍は枝を払おうとしたが、北朝鮮兵に止められたことがあったという。そのとき、この木は指導者の金日成が植えたものだから切ってはならないと言われた、と当時の将校の一人は回想している。

1976年8月18日の朝、韓国人の作業員5人が、国連軍の警備隊に守られて枝払いを始めた。警備隊を率いていたのは、アメリカ陸軍のアーサー・ボニファス大尉とマーク・バレット中尉である。区域で武器を持てる人数は限られており、二人の大尉は拳銃を身に着けていなかった。作業が始まってしばらくすると、北朝鮮軍の将校が率いる十数人が現れ、作業をやめるよう求めた。ボニファスはこれに取り合わず、作業を続けさせた。北朝鮮側は橋の向こうから増援を呼び、バールや棍棒を持った兵が加わった。将校の号令とともに、北朝鮮兵は作業員が落とした斧を拾って襲いかかった。ボニファスは倒されて殴り殺され、バレットは道の脇の窪地で襲われて、病院へ運ばれる途中で死んだ。乱闘そのものは20秒から30秒ほどだったとされ、その一部始終は国連軍の監視所から写真と映像に記録されていた。
北朝鮮の報道は、アメリカ側が勝手に木を切ろうとし、先に手を出したので自衛したと伝えた。アメリカ側は、北朝鮮が前もって計画した襲撃と見た。在韓米軍の警戒の度合いは引き上げられ、ホワイトハウスではフォード大統領が協議を重ねた。報復の砲撃も検討されたが、境界の向こうに並ぶ砲の数で劣り、韓国の朴正熙大統領も軍事行動を望まなかった。選ばれたのは、圧倒的な兵力を見せつけながら、問題の木そのものを切り倒すという案だった。作戦には、アメリカの民話に出てくる巨人のきこりにちなんで、ポール・バニヤン作戦の名が付いた。

8月21日の午前7時、アメリカ軍と韓国軍の車両23台が、予告なしに共同警備区域へ入った。チェーンソーを持った工兵の班を、斧の柄と拳銃を持った警備の小隊が囲み、韓国軍の特殊部隊が橋のたもとを固めた。特殊部隊は素手に近い格好で現れたが、トラックの荷台の土嚢の下には小銃や擲弾発射器が隠してあった。上空では攻撃ヘリコプターが旋回し、さらに高いところをグアムから飛んできたB-52爆撃機と戦闘機が飛んだ。沖には空母ミッドウェーの艦隊が待機していた。区域に入った部隊だけで813人にのぼったとされる。
北朝鮮側は150人から200人の兵をバスで送り込み、機関銃を据えて見守ったが、手は出さなかった。ポプラは42分で切り倒され、高さ2メートル半ほどの切り株が残された。その日のうちに、金日成から事件への遺憾の意を伝える言葉が届く。謝罪とまでは言えない文面だったが、アメリカ側は、休戦以来、北朝鮮が非武装地帯での暴力について責任を認めた初めての例として受け止め、事態はそれ以上広がらなかった。

事件のあと、共同警備区域の中では両軍の警備兵の持ち場が分けられ、境界線を越えて行き来することはできなくなった。国連軍の前進基地は、殺された大尉の名を取ってキャンプ・ボニファスと改められた。切り株も1987年に取り除かれ、跡地には二人を悼む碑が置かれている。のちに韓国の大統領となる文在寅は、このとき特殊部隊の一員として作戦の後方支援に加わっていた。一本の木の枝払いが、核兵器を積める爆撃機まで呼び寄せた出来事は、物語「冷戦」の最前線がどれほど張りつめていたかを今に伝えている。